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五官

 

 

人間の五官の本性は生まれる前からあるものです。赤ちゃんは生まれた時に、既にお母さんのおっぱいの味を知っているのです。お母さんのおっぱいをおいしそうに飲みますが、苦いものを与えると、すぐにはきだしてしまいます。生まれた直後なのに、誰に教えられないのに、おいしいものとおいしくないものとを知っているのです。人間の五官の本性は生まれる前からあると言わなければならないのです。生まれる前からあるものは、死なないのです。

生まれる前の命は死なない命です。皆様の五官の本性は、死なない命をそのまま体得していらっしゃるはずです。五官の感覚と同じように生活できれば、死なない命で生活できるはずです。五官というのは目で見たり、耳で聞いたり、手で触ったり、鼻で匂いを嗅いだり、舌で味わったりしていることです。命の本質の働きが、そのまま五官になっているのです。
大自然とは何か。天然自然、おのずからなる事実が大自然として現われている。これは雲の流れを、じっとご覧になれば分かります。雲の流れは人間が造ったものではありません。おのずからなる自然現象です。天然が自然になって現われている。これが大自然の根本原理です。
皆様の五官は、大自然の根本原理に接触することができるのであって、本性が魂に働きかけているのです。魂と本性とは少し違います。本性というのは、例えば花が咲いていることに現われています。地球の命がそのまま自然現象として咲いているのです。
バイオテクノロジーは、自然現象の真似をしているのですけれど、バイオの考え方の根本原理はやはり自然現象です。自然現象の本質は何かと言いますと、言葉です。天然が言葉を出している。語っているのです。おのずからの命が、おのずからの本性を語っている。これが花が咲いていることです。これは死なない命の実物です。これを皆様の直感は、きれいとか、美しい、おいしいとして捉えているのです。
天然は物を言っているのです。天然とはおのずからです。日本的に言えば、お天道さんです。お天道さんが物を言っているのです。人間の精神に対して語りかけているのです。砂糖が甘いというのは、味を通してお天道さんが魂に誇りかけているのです。
皆様の魂は、それを見たり、聞き分けたりすることができるのです。つまり皆様の命の本性は、言です。だから天然目然の言を聞き分けたり、見分けたり、味わい分けたりしているのです。
聞いてみる。味わってみる。嗅いでみるのです。皆様の本性は、見るのです。大自然を見るのです。天然現象を理解するためにこれを見分ける力を持っているのです。
天然自然の言、大自然の言、宇宙の命から流れ出す言が、皆様が生まれる前に持っていた命の本性であって、命の本性が肉体を持って現われているのを、人間と言うのです。
命の本性が肉体を持っている状態を、魂と言うのです。魂とは言が肉体を持っている状態を言うのです。この魂が目を開きますと、大自然の命が分かってきます。従って、死なない命が分かるに決まっているのです。
人間は地球から生まれてきたのですが、地球を生んだのが言です。太陽系宇宙の存在原理が言です。これを魂は捉えることができるのです。これが死なない命であって人間の魂の本性です。
天然自然の命に対して、心を開けばいいのです。
命は一つしかありません。砂糖が甘いということが命です。電灯がついていることが命です。人の魂はこの命を聞くことができるのです。
魂の本質は大自然によって語られている言を聞き分けている。花がきれいということ、魚がおいしい、果物がおいしいという形で、自然現象を聞き分けて弁える力をもっている。
これが死なない命の本性であって、学校教育、社会教育は生活には必要ですが、命に関しては全く無価値です。
学校へ行ってもいいでしょう。良い給料をもらうために学歴もプラスかもしれませんが、給料をもらうことと、命の目が開くということは次元が違うことです。テーマがちがうのです。
どれだけ学校へ行こうが、どんな勉強をしようが、命がわかるのではありません。皆様に必要なことは、先天的な命の本性に目を開くことです。これができれば死なない命が分かるのです。
花がきれいということが分かる人は、その本性に帰ることが十分にできるのです。これが般若ハラミタの本当の心です。
新約聖書テモテへの手紙の中で、パウロは、神はすべての人が救われて真理を悟ることを欲したもうと言っています。イエスは、人の子を信じてとこしえの命を受け取ることは、神の願いであると言っています。
神自身の願いとは、地球が造られた目的のことなのです。イエスは人の子である事実を認めてもらって、復活を許されて天地自然の裁き主として、キリストとしての正当な位を与えられた。彼だけが人の子であることを、神によって公認されたのです。これ以外の人を神は認めていません。
イエスの人となりは、万人の典型です。神の前に一人のイエスが立っている。その後ろに何千万、何百億の人が一列縦隊で立っているのです。神の前に立っているのはイエスだけです。神の目に見えるのはイエスだけであって、イエスの影になっている人は全部救われます。
イエスの影から出ている者はすべて否定されます。神はイエスだけしか認めていません。これが仏説阿弥陀経の原理です。阿弥陀如来という仏さんがいるのではない。イエス・キリストを抽象概念として、宗教的に人格化すると阿弥陀如来になるのです。
阿は無です。弥陀は限りです。阿弥陀とは無限です。阿弥陀如来とは無限に生きている仏さんということです。これが皆様の霊魂の本体です。
実は女性はこれを狙っているのです。男性を欲しているのではありません。たった一つしかない命の原点を狙っているのです。
女性は白馬に乗った王子様を狙っている。生きているうちに、すばらしいことがあるに違いないと、女性は勝手にうぬぼれているのです。生きているうちにあるすばらしいことは何かと言いますと、すばらしい人が迎えに来てくれると思っているのです。これは女性心理の最高です。
すばらしい人とはイエスのことです。阿弥陀如来のことです。阿弥陀如来であるイエス、イエスである阿弥陀如来です。ユダヤ的な約束から離れて、象徴的にイエス・キリストを概念化すると、阿弥陀如来となるのです。
無量寿如来に帰依するのです。これはキリストの復活の中に入ってしまうことです。これしかないのです。女性が求めている最高の理想の男性はこれしかないのです。神の御霊を受けるとは神の約束を受けることです。神の約束の実体が神の聖霊です。これを受け取ると、神の約束によって発言できるのです。
皆様の今の命は、唯一の命、とこしえの命をつかまえるためにあるのです。
 

 

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