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人の中にある死なない命


生きているうちに、魂の本体を受けとめて、死なない命をつかまえられる人は、めったにいません。ないことはないのですが、非常に少ないのです。よほど心を広くして、自分の心を開くような気持ちにならないと、本当の命の故由が、なかなか理解できないのです。
見たり、聞いたりする力の本質、五官の働きの力の本質が、魂の根源なのです。
過去に命の本質があったのです。これが、現世に生まれてきたのです。そして、死んでいくのです。人の五官の働きの根元は、生まれる前にあった。人間が現世に生まれて、五官が肉体的に働いている。やがて、この世を去ると、未来に続いていくのです。肉体的な働きは、現世だけです。しかし、五官の働きの本質は、過去、現在、未来と続いているのです。
生まれてきた赤ん坊は、二十四時間以内におっぱいを飲みます。誰に教えられなくても、おっぱいをすうことができるのです。生まれたばかりの赤ちゃんは、少し目が見えるようです。以前に、NHKのテレビの番組で、このことを放送していましたが、生まれた直後に見えて、少し時間がすぎると、見えなくなるのです。
つまり、生まれる前に、人間の五官は働いていたのです。母親の胎内にいる時に、母親の血液の流れを聞いていたのです。これが、天の音楽のように聞こえていたらしいのです。
そのように、人間は、この世に生まれてきて、誰に教えられなくても、母親の乳をすうことができるのです。
目が見える、耳が聞こえるというのは、生まれる前に、それだけの力が、その人に宿っていたからです。五官の本質は、生まれる前に宿っていたのです。それが、肉体をとって、この世に出てきて、物心がつくのです。物心がつく前から、五官の働きはあったのです。
人間の本能性が、魂の根元になるのです。本能性が肉体をとると、精神性に結びつくのです。それで記憶をすることになります。考えたり、判断したりすることができるようになるのです。
精神的な働きとか、五官の働きの本源が、魂の元なのです。それが、この世で、肉体をもって、現世の生活を味わうことになるのです。この状態を、霊魂というのです。
霊とは、こういうことが存在する根源的な流れのことです。五官の働きを、魂というのです。これが、生命力になりまして、肉体をもって地上に現れているのです。
何のために、肉体をもって地上に現れたかといいますと、天地森羅万象を知るためです。天地森羅万象は何であるか。絶対人格の現れなのです。真言的な言い方をしますと、大日如来の現れみたいなものです。これが、絶対人格であって、命の本体なのです。命の本体が、見える形で現れているのです。
目に見える形で現れている命の本体を知るためには、私たちも、目に見える形で、この世に出てこなければならなかったのです。
私たちが肉体をもって、この世に出てきたから、太陽の暖かさが分かるのです。雪の白さが分かるのです。花が咲いている状態が、分かるのです。肉体をもってこの世に出てきたのは、宇宙に遍満している命の本体を知るためなのです。
命の本体が、万物となって現れているのですから、これを知るためには、霊魂である私達も、肉体という形をもって、現れなければ、万物として現れている命の本質を知ることができないのです。これが、人間がこの世に生まれてきた目的です。
命の本質は、本来形がないものです。命の本体を、神と言います。神を正確に受けとめる人間の心理状態を、仏と言います。仏とは、人間の側に立った悟りであって、神というのは、絶対の側からの呼びかけの名前になるのです。
絶対からの呼びかけである神と、人間の側からの悟りである仏と、この二つがいるのであって、私達が本当に仏になるためには、般若心経によって、五蘊皆空を経験しなければならないのです。
本当に五蘊皆空を実行する。自分自身の気持ちを空にして、自分の気持ちにとらわれないで考えることができるなら、命の本体をつかまえることができるのです。般若心経は、その方向を示しているのです。
私達が、肉体をもってこの世にいるのは、森羅万象が現象的に現れているからです。肉体的に生きていることが主体ではなくて、命の本体である本当のもの、神と言っても何と言ってもいいのですが、この本体をつかまえることが、人間の目的です。
この世に生きている間は、目は見えますし、耳も聞こえます。見たり聞いたりできるのは、命の本体の力が、そのまま私達に宿っているからです。人間の目の力、耳の力は、神の力と同じもの、宇宙の命の本源と同じものです。その力が、私達に宿っているのです。
私達が、人間の常識にこだわらないで、利害得失にこだわらないで、素直に見ることができれば、神を見ることができるのです。そんなに難しいことではないのです。
自分の思想や経験にこだわらないで、ただ生きていることだけを考えればいいのです。そこに神がいるのです。
人間は、自分が生きていると考えています。そうすると、命は自分のものだという意識をもってしまいます。命が自分のものだという考えが間違っています。
人間は、自分が生まれたいと思って生まれたのではないはずです。この点を、よく考える必要があります。自分が生まれたいと思ったのなら、命はその人のものかもしれません。しかし人間は、百人が百人共、千人が千人共、自分が生まれたいと思った人は、一人もいないのです。だから、今生きている命は、自分のものではないのです。
命は天のものです。神のものと言ってもいいでしょう。今生きている命の素性が分かれば、死なない命を見つけ出すことができるのです。命の素性が分かりましたら、自分が生きているのではないことが、分かるでしょう。
人間の本能が、命の本質ですから、これが何であるかが分かれば、命が神の命であることが分かるでしょう。
人間の命のルーツ、根本が分かればいいのです。これを仏教では、大日如来であるとか、遍照金剛であると言いますが、これは一つの形容詞でありまして、世界的に通用する、本当の遍照金剛は何であろうか。宇宙に遍満する命の実体は何かということです。
これが分かってきますと、今まで自分が生きていた記憶がだんだん変わってきます。記憶の入れ替えがなされます。記憶の入れ替えがなされますと、生きていながら神と同じ考えで見ることができるのです。神ほどの偉さはないけれど、神と同じ考えで見ることができるようになるのです。
そうすると、死なない命が自分にあることが、分かるのです。この命を知ることが、生まれてきた目的です。
自分が生きているという考え方が、妄念の源になっているのです。人間は、自分が生まれたいと思ったのではないのですから、命は私達のものではありません。自分のものではない命を、貸し与えられているのです。貸し与えられている命を、自分のものだと思いこんでいることが、無明煩悩の根底になっているのです。これが、人間が死んでいく根本原因です。
自分が生きている。命は自分のものだと考える。そうではないのです。他人から預かっている命を、自分のものだと思いこんでいるのであって、横領しているのです。
自分の意志によって生まれたのなら、自分の意志によって生きるのは当然ですけれど、自分の意志によって生まれたのではないのですから、自分の意志によって生きることは、根本的に間違っているのです。
命を貸し与えたもの、命を預けたものが、どういう意味で私達に命を預けたかを、勉強する必要があります。これは、自分の魂によく聞いてみれば、分かることです。
例えば、きれいな花を見ると、きれいだと思う。なぜ花を見てきれいだと思うかということを、まじめに考えてみますと、霊魂の意味が分かってくるのです。
おいしいとか、美しいとか、すばらしいとかいうものを好むのが、霊魂の建前なのです。このような建前を、霊魂がなぜ持っているかを素直な感覚で考えてみると、自分の中に、死なない命があることが、分かるはずです。これを見つければいいのです。
イエスは、正確に命を発見しました。彼が命を見つけた方法が、正確であると証明されて、死を破ったのです。死を破った彼の命の見つけ方をまねたら、私達も、正しい命の発見ができるのです。
般若ハラミタというのは、彼岸へわたるということですが、彼岸は人の中にあるのです。五蘊が、人の中にある彼岸を、見えなくしてしまっているのです。五蘊を捨てれば、彼岸が分かるのです。それだけのことです。
宗教、教育、常識が、五蘊になっていますから、人の中にある本当の命が、見えなくなっているのです。
イエスが死を破ったことが契機になって、人間は死ぬべきものではないことが、歴史的に証明されたのです。それによって、キリスト紀元ができているのです。世界歴史の実体が、人間は死ぬべきものではないことを、証明しているのです。歴史が証明しているのです。
だから、歴史を勉強する必要があります。これは、宗教の勉強とは違うのです。人間が生きていることの実体を、勉強するだけのことなのです。
人間歴史は、どのような世界観で成立しているか。人間の善悪利害の根本概念は、どこからきているかを、勉強しなければならないのです。これは、学問の勉強ではなくて、命の筋道を勉強することです。素直になって考えますと、誰でも分かることなのです。
まず、五蘊皆空を知ることです。これが素直です。素直になりさえすれば、イエスの命は誰でも分かるのです。
難しいと思わないで、死ぬか生きるかの問題ですから、落ち着いて、冷静に考えようという勇気を持って頂きたい。
人の中に、死なない命があるのです。これを見つければいいのです。
 

 

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