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孤独

 

人間が死ぬものだという考え方は、命を真面目に考えていない人に共通する大欠陥です。世間の人は皆死ぬのだから、自分も死んでもしかたがないという考え方は、赤信号皆で渡ればこわくないという考えなのです。
ところが、死んでしまうと、皆で一緒という理屈は、一切通用しないのです。人間は全く、永遠の孤独なのです。
現在生きていらっしゃる皆様は、因縁にまといつかれています。自分の業にまといつかれているのです。自分という気持ちが、孤独なのです。本当に自分の気持ちを分かってくれる兄弟はいないでしょう。妻でも、子供でも、自分の気持ちを本当に理解してくれる人は、この世の中には一人もいないのです。
自分は全くの孤独なのです。全くの孤独という状態が、死んでからの危険信号なのです。黄泉、冥途の状態が、孤独という状態で、これがすでに、現世に現れているのです。
観世音になりますと、これがなくなってしまうのです。神と一緒に歩いている。神と一緒に生きていることが、はっきり分かるのです。
命は本当は生と書くべきです。命は現世に生きているという意味なのです。しかし、生きていることの実質的ないのちは、生です。生とは、死なない命なのです。人間は、実は、死なない命を与えられているのです。これを、生きているというのです。生きているということと、命とは違うのです。
人間は今、生きています。これをしっかり見きわめるのです。生きているという有難い業(ごう)をつきとめますと、観世音になるのです。これは死なないのです。
生が肉体的に働いている状態を、魂といいます。魂は死ぬ命とは違います。死なないものなのです。死なない、一番上等の命を、人間は経験しているのですから、これがよく分かったら、死ななくてもすむのです。
例えば、暑い夏の昼間に、クーラーがついた部屋に入りますと、涼しく感じます。涼しいとは何でしょうか。これが、実は、死なない命の持ち味なのです。俗な言葉で言えば、極楽になるのです。極楽の本体は何かと言えば、生です。だから、これをつかまえたら、死ななくなるのです。マグロの刺身を食べて、おいしいと感じる。これが生の味なのです。
この世に生れるまでに、皆様が経験しておられた死なない命、本当のいのち、永遠のいのちの味を、五官によって現在経験しているのです。ところが、そのつかまえ方が分かっていないために、みすみす生きていながら、死ななければならないことになるのです。
生きていることは、死なないことです。死なない特別の命を経験していながら、これに対する認識を持っていない。
この世の常識、この世の宗教にまといつかれているために、観世音することができない。観自在することができないのです。そのために死なねばならないことになるのです。
人の五官の感覚はすばらしいものです。これはそのまま神の力なのです。神の力が人に宿っているのです。これを無駄にしてはいけないのです。
死ぬということは、人間が考えるほど簡単なことではありません。だから、生きているということを、しつかり見つめなければいけないのです。
生きていることがなぜすばらしいかといいますと、五官が本当の命を経験しているからです。目が見えるということ、耳が聞こえることが、神なのです。神の実物です。神の実物を人は持っているのです。これをはっきり信じれば、今までの迷いはすべて消えてしまいます。
せっかく生きていながら、死んでしまうことは、ばかなことです。どうか死なないようにして頂きたい。命の本物を発見して頂きたいのです。
命は神です。神は命です。神と一緒に生きておいでになるのですから、リビング(living)という神の実物をつかまえて頂きたいのです。
神が分からないというのは、今までの無明煩悩に基づいて考えているからです。今までの自分の経験を棚にあげて、もう一度子供のような素直な気持ちになって、命の実物をつかまえて頂きたいのです。
私たちがこの世に生れてきたことが業(ごう)です。肉体的に生れてきたことが業なのでありまして、般若心経のいわゆる究竟涅槃というのは、人間の気持ちが冷えて消えてなくなってしまうことをいうのです。
皆様方の気持ちが冷えて消えてなくなってしまいますと、生れる前の皆様の感覚が分かってくるのです。涅槃を徹底しますと、皆様は業を果たして、業にまといつかれていない自分が分かってきます。
皆様が今生きておいでになるのは、皆様がこの世にお生まれになる前の皆様自身の種があったはずなのです。原因があったはずなのです。この世に生れ、現在日本人として生きていらっしゃるのは結果でありまして、このような結果が現在出現しているのはその前の原因があったからです。過去的な人生があったはずです。
これを聖書的に言いますと陥罪以前ということになるのです。陥罪というのは罪を犯したことです。旧約聖書の創世記の二章、三章にありますが、神が絶対に食べてはいけないという善悪の木の実を食べて、死んでしまったことを意味するのです。人間は自ら善悪利害の判断をしてはいけない。これをするのが自我意識です。業におちこんだことを陥罪と言います。
現在の人間は世間の常識、知識に押さえ込まれています。自分の常識や知識で、皆様方の霊魂が束縛されているのです。観自在という思想を皆様は自由に持つことができないのです。色即是空を考えたい、肉体的に存在する自分はいないと考えたい。しかし考えられないでしょう。
大学の教授が学校では物質は存在しないと教えているが、家へ帰りますと物質が存在するという感覚で生活している。このような矛盾がどうして起きるのかと言いますと、自分の意識によって束縛されているからです。人間の知識や常識が、魂をだきすくめているのです。皆様方は後天性によって、霊魂は不自由なものになっているのです。この世に生れたばかりに、純人である皆様の純粋さが消えてしまっているのです。
皆様の妄念が消えてしまいますと、皆様は思索的に自由になります。自分が存在しないということをはっきり認めることができます。
陥罪以前の純人であった皆様と、今の皆様自身とは違うのです。自分自身ではない自分が分かるのです。
皆様は現在の固有名詞の自分を自分だと思っておいでになりますが、これは人間の常識でそう思っているだけなのです。常識はすべて迷いでありまして、皆様の魂を束縛しているのです。
常識を破るのです。常識を踏み越えること、クリアーすることが本当の命を見つけるための根本的な条件です。これを般若ハラミタというのです。
般若というのは常識ではない知恵のことです。叡知又は上智が般若です。般若が皆様にお分かりになれば、現在の皆様の世界観や人生観にこだわらない、のびやかな自分が発見できるのです。
なぜ私が宗教家でもないのにこんなことをお話ししているかと言いますと、黙っていれば皆様は死ぬばかりだからです。一億二千万人の日本人、広く世界は八十六億の人間は、皆死んでしまうのです。生活のことは知っているが生命のことを何も知らないからです。これを黙って見てはいられないのです。
本当の命、イエスが死を破ったという歴史的事実をお話ししたいのです。これがお分かりになれば、現代文明でもてはやされている思想がすべてユダヤ人の作り話によるものだということがお分かりいただけるでしょう。そうして皆様方は、陥罪前の純人である自分を見ることができるのです。
純粋の水があるように純粋の人間があるのです。これを見つけるのです。これが涅槃の目的です。涅槃とは自分目身の思いが消えることです。自分の本体を見つけるためには、命そのものを見つけなければならないのです。これは般若心経に書かれていないので、やむを得ず聖書によってイエスという人を勉強するしかないのです。
今までの、皆様の人生観で生きていらっしゃれば必ず死にます。死ぬしかないのです。今の文明は人間を殺す文明です。魂のこと、人間の本質、本性をまじめに考えようとしない文明であって、けしからん文明なのです。そのような文明意識に皆様の魂が束縛されなければならない必要はありません。それをたたき破ればいいのです。
文明は人間のためにあるのであって、人間が文明のためにあるのではないのです。どうぞ今までの皆様の常識や知識、日本的な世界観や人生儲で抱きすくめられないで、もっと自由に発想して頂きたい。そのために、日本人にとっては般若心経が何よりの薬になるのです。
皆様はまだ本当の命をご存じありません。本当の人間を知らないのです。だから現在までの人生観や世界観を信用しないで頂きたいのです。
今の日本人は全部死ぬだけです。文明の前途には人類の絶滅があるだけです。文明には目的がありません。希望も理想も夢もないのです。
日本という国は何の目的で存在しているのでしょうか。どういう目的があるのでしょうか。この説明ができる人がいないのです。
皆様は五十年、六十年とこの世に生きていらっしゃいましたが、自分目身の本質についてどういう勉強ができたのでしょうか。働いて生活はしていたでしょう。ただそれだけなのです。生活だけしていたというのは、結局死ぬために生きていたということです。
そういうばかばかしい人生を自分の人生と考えないで、もっと完成されたいというお気持ちを持って頂きたいのです。命をはっきり捉えようという壮大な勇気を持って頂きたい。 
新しい世界を創建するのです。自分目身を再発見するのです。本当の命をつかまえる秘密は、般若心経の涅槃と新約聖書にあるイエスの命にあるのです。これをしっかり勉強すれば死なない命が分かるのです。


 

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