top of page

本当の霊

 

般若心経と聖書は、人間が現世に生きていることが間違っていると言っています。ところが、人間が現世に生きていることが間違っていると言われても、それが何のことか分からないのです。
考えなければならないことは、私たち日本人は現世に所属する人間の集団でありまして、現世の他に人生があるということは考えられないのです。ところが、冷静にお考えになりまして、現世に生きていることにどういう意味があるかと言いますと、意味がないのです。
人間の魂はこの世に出るべくして出てきたのですが、この世に生まれてきたということが業(ごう)の中に放り込まれたことになるのです。苦しみや悲しみの中に無理やりに放り込まれたのです。
現世の生活を隠忍自重して、いわゆる倫理的に修業するつもりで生きていらっしゃったとしても、それが結果的にどういうプラスになるだろうか、どういう意味があるのだろうかと考えますと、現世に生きているのは現世だけのことなのです。現世に生きていることを絶対だと考えていますと、現世に生きている現象的な意識、又は自我的な気持ちだけで私たち自身の記憶がつまってしまうのです。
肉体人間が存在すると思うことは、聖書的な言い方をしますと、肉の思いということになります。現象が実体だと考えることは、現世における人間の意識であって、その意識が永遠に通じるものではないのです。
現世に生きている間は、現世が本当のような気がします。しかし、現世を去ってしまえば、現世が本当ではないことは分かるのです。そのことは直感的に分かっていますけれど、つい現世における感覚にしがみつきすぎて、それからなかなか離脱できないのです。
私たちの生活経験によって、私たち自身の記憶ができるのです。現世に五十年生きていたとしまして、五十年間の記憶がその人の人生の実体になっているのです。
人間の命は実体的に何であるかと言いますと、人が生きているという思いです。どのような世界観で生きていたのか、どのような価値観で生きていたのか、その人の物の考え方、価値判断のしかたが、その人の魂の実体になっているのです。あることについて良いと思えばその思いが認識になり、それが記憶になる。記憶がその人の霊になるのです。
霊はシャーマニズムの霊とロマンチシズムの霊と二つあるのです。ロマンチシズムと言いますと、何か情緒的、叙情的なもののように思われるのですが、本当のロマンチシズムというのは非常に具体的なものです。例えば太陽光線の働きがそのままロマンなのです。普通の人間の科学的な認識、哲学的な推論ではとても説明することができない実体、科学以上に精密、正確な具体的事実がロマンの正体です。神の存在はそういうものなのです。
科学にはずいぶんいい加減なところがあるのです。例えば自然科学は一つの概念でありまして、時間が存在するということを仮説として受入れているのです。時間が存在することを前提的に信じなければ、空間の存在はないとして、時間と空間を一緒に信じているのです。ところが時間が実存することを実証する方法は、今の学問にはないのです。時間がどこにあるのか。どうしてあるのか。哲学でも分からない。現在の人間の理念では、時間があることを論証することも実証することもできないのです。
そのように人間の現象意識がシャーマニズムなのです。現象という考えが、一つのシャーマニズムです。リアリズムと言いますと、非常に実体的な語法になるのですけれど、実は現実が真実であるという考えは、非常にあやふやな、あてずっぽうの思想なのです。現実がなぜ真実であるのか。現象がなぜ実体であるのかが分からないのです。世間でそう言っているから自分もそう思っているという程度のものなのです。
時間は本当にあるのか。例えば五十年間生きていたとしても、五十年という人生がどこにあったのか。本当に五十年間生きていたのかといえば、そうだろうとしか言えないのです。肉の思いに基づいてしか考えられない。人間の常識はそういうものなのです。
時間は実際にあるのかないのか分からない。時間が流れているということはあります。確かにあります。時間が流れているということは流れているということで、停滞しているのではない。一分間という時間があるとすれば、一分間という停まった時間がなければならないことになるのです。
ところが停まった時間はどこにもないのです。人間が一分間と考えているのは、一分間という流れを言っているのです。時の流れを一分間と言っているのです。もし一分間という時間があるとすれば、停止している状態で認識できなければならないのです。流れている状態でしか時間を捉えることができないとすると、時という言葉はありますが、時間はありえないことになるのです。物があるというのも流動的に存在していますから、あるとは言えないのです。
人間の肉の思いは業です。ありもしないものをあるように考えさせられているのです。私たちはこの世に生まれたことによって、業を背負わされたのです。この業に勝つことができるかどうか、この世に生まれてきたことに勝たなければならない。生まれてきたという事実を、揚棄しなければならないのです。
人間は生まれてきたという肉の思いをしっかりと刻みこまれたのです。時間があるというのは、時間が固定的に存在するということです。物質が固定的に存在する。時が固定的に存在するという事実があるのなら、時間があると言えるのです。
時はありますが年中流れていますので、あるとは言えないのです。時はあるのではなくて、流れているのです。例えば、川の水が流れています。勾配がある川とか底の浅い川は勢いよく流れているのが分かりますが、大きな川、底が深い川ですと、いわゆる淵という状態が現われるのです。ところが、淵という特別なものがあるかと言いますとないのです。淵があるという思想が、時間があるという思想です。
水は流れているけれども、地形の関係で水が止まっているように見えるのです。淵でも底の方はどんどん流れているのです。ちょっと見ていると停止しているように見えるのです。池でも停止しているように見えますけれど、実は流れているのです。じつと固定しているものは、どこにもないのです。
旧約聖書創世記の一章二節に、『闇が淵のおもてにあり』という言葉があります。悪魔が淵が固定的にあるものと考えた。固定的に物が存在するように考える概念が発生したのです。固定した意識で捉えるという考え方が宇宙に発生した。これが悪魔です。時間がある、空間があるという考えは悪魔の考え方です。時間がある、空間があるというのは概念です。淵というのは水の流れのある箇所であって、そのように見えるだけなのです。
川の流れの一形態にすぎないものを固体のように考え始めた。これがいわゆる肉の思いです。皆様の肉体も本当にあるのでしょうか。もしあるとすれば固定的にあるはずです。そうすると、お腹が空かない時間があるはずです。喉が乾かない時間があるはずです。固体とは固定ですから、生理現象が働きません。従ってお腹が空かない。喉が乾かない。そして目も見えないはずです。目が見える、耳が聞こえるというのは、生理現象が働いているからです。生理が働いているから、動いているものを捉えることができるのです。
もし人間の肉体が固体的、個物的に存在していたなら、動いているものを捉えることはできません。鳴り響いている音を聞くことはできないのです。走っている車の姿を見ることはできないのです。人間の目は走っている車の姿を走っている状態のままで捉えることができます。皆様の目が絶えず運動しているからです。
人間が存在している。私たちの肉体が存在している。時間や空間が存在していることと、それに対する人間の意識状態は矛盾しているのです。人間の意識は物があるような気がするのですが、皆様の五官の状態はいつでも動いているのです。
この点についてカール・マルクスはうまく理屈をつけているのです。すべて物事は弁証法的に存在すると言っている。弁証法的にというのは、流動する形を意味するのです。従って弁証法的に存在することになりますと、物質はすべて流れ動いていることになります。そこでおかしいことは、弁証法的に存在しているとすれば、物はないはずです。流動してはいます、運動はありますけれど、固体と言えるかどうかです。これは形態現象であって、絶えず流れ動いていますから、物とは言えないのです。
弁証法的という言葉を使うとすれば、唯物論という語法は成立しないのです。これは重箱読みのようなことになってくるのです。弁証法はどこまでも流れ動いていることです。唯物論は個物があるという考えです。流れ動いているものでなければ物として存在しないのですから、物質と言えるものは、どこにも存在していないのです。すべては現象ばかりです。これが弁証法という概念の実体です。弁証法という概念を先に言うとすれば、唯物論という言葉が使えなくなるのです。
人間社会ではこういう考え違いが当たり前で通用するのです。学理学説もいいかげんなものです。一流の経済学者、哲学者が、弁証法的唯物論が成立すると考えているのです。時間が存在しないのに、時間があると考えているのです。
人間の思いはそのように不確実な考え方を常識という言葉で鵜呑みにしているのです。実体的に存在するはずがないものを存在しているように思い込んでいる。感覚としては時間はあるでしょう。物質もあるように思えるでしょう。しかし、理論的には存在しないのです。感覚と理論とでは違っているのです。感覚を承認するのが肉の思いなのです。
目で見ているものがあると思う。これは素朴実在ということですが、非常に原始的、動物的な考えなのです。素朴実在という考えが、唯物論の基礎になっているのです。そこへマルクスは弁証法という言葉を入れた。フランス、イギリスに古くからあった唯物論は、弁証法とは言わなかったのです。ただ素朴実在という考えだけだったのです。
デカルトは物質は継続的に存在する、人間の精神は継続的には存在しないと言っている。変化しないで存在する人間の精神と、継続的に存在する物質とは関係がないと考えている。これがデカルトの考えなのです。
デカルトは物がある、動かない物があると考えている。そこへマルクスはヘーゲルの弁証法をつけたのです。おかしなものをつけたものでありまして、デカルトの考える物質論とヘーゲルの考える弁証法とは、一つにしてはいけないのです。一つに組み合わすことができない理論なのです。それをマルクスは一つにしてしまったのです。
現在、ほとんど世界中の人々が唯物論、いわゆる物質が存在するという思想を信じている。これが肉の思いというものなのです。
人間は目で見ているものがあると考えている。目で見るというのは、非常に不正確な感覚です。花は見た所、不動の存在のように見えますが、少しずつ変化しているのです。咲きつつあるが、枯れつつあるのです。一定不変の状態で存在している花は、どこにもないのです。一定不変の時間がどこにも存在しないように、万物はすべて流動しているのです。これが弁証法です。
目で見たものがあるという考え方が間違っているのです。これを信じるかどうかが、現実に生きている人間の生命認識にかかわる大問題です。これが死ぬか生きるかの問題になるのです。
唯物論は非常に幼稚な理論ですが、現代人はそれを鵜呑みにしているのです。これほど人間の思考能力はでたらめなものです。不正確なものです。皆様はそのような思いで生きておいでになりました。そういう認識が記憶になって固まっている。この状態で死んだらどうなるのでしょうか。現象世界に生きている間は唯物論は通用します。ところが、現象世界を去ってしまいますと、唯物論が通用しない世界へ皆様の魂は行くことになるのです。現世の記憶を持ったままで他界しますと、困ることになるのです。
宇宙は本質的にガス体です。液体でさえもないのです。地球という物質があるのは、太陽系の特殊現象です。太陽系以外の外宇宙には物質は一切ないのです。ブラック・ホールまであるのです。宇宙の果ては光の速度よりも早い速度で逃げているのです。宇宙が消えていっているのです。これが存在の実体です。
地球上の出来事は、論理的に弁証できる範囲のことです。ところが論理的に弁証できない範囲の問題があるのです。これがシャーマニズムです。シャーマニズムというのは、いわゆる霊の現象です。新約聖書にはたくさんでてきます。これを悪霊と言います。悪霊というのは、人間の理性の根源に一致しないようなもの、人間の肉性を驚かすような霊をいうのです。ところが、人間の魂の根源、霊性には感銘を与えることはできないのです。摩訶不思議な状態を現象するものですから、一時ははっと思うのですが、人間の命の実体、魂には何の関係もないのです。例えば、一メートルのへびが立って踊ったとしても、不思議なことではありますが、人間の魂の命には何の関係もないのです。いわゆる交霊魔術というのが白人社会にはたくさんあるのです。
シャーマニズムは人種や民族、国によって違う現われ方をします。だから、白人の交霊魔術と日本の神霊科学とはあり方が違うのです。日本には荒神さんとか竜神さんがあるのですが、西欧にはありません。日本とは別のものがあるのです。そのように、人種や民族、国の伝承によって、シャーマニズムのあり方はずいぶん違ってくるのです。
シャーマニズムは肉体を持っている人間を驚かすことはできますが、それだけのことです。人間の本質には何の変化も与えることができないのです。例え山を動かすことができたとしても、人間の魂には何の関係もないのです。どんな小さなことでも、人間の魂に関係があることなら大事件です。現象的に摩訶不思議なことが起きても、人の魂の救いには関係がないのです。
神が正確に分かれば、神と悪霊とは簡単に見分けがつくのです。神はロマンチシズムの本体です。太陽光線はロマンチシズムを端的に見せてくれるのです。
神は人の理性にアッピールするのです。神は理性の本源ですから、どこまでも理性的にするのです。これがいわゆるロゴスです。皆様の魂の本体はロゴス性を基本にしていますので、ロゴスがはっきり分からなければ、皆様の魂は絶対に救われません。こういうことが分かってきますと、皆様の記憶の内容が変化する可能性があるのです。今まで皆様がで地上で人生経験をしておいでになりましたが、その内容が変革される可能性があるのです。
人の魂にはシャーマンとしての持ち前のものがあります。そういう魂は生まれた後の環境によって、霊能的な感覚を敏感に受けやすいのです。そういう人は異能者のように見えるのです。しかし、これは現象的なものです。現象的なものを現象的に変えることはできますが、人間の魂の本源に何の感化を与えることもできません。人間の肉性の記憶とか肉性の感情を驚かすだけのことなのです。
日本にはシヤーマン的な事蹟がたくさんあるのです。日本の神というのは、全部シャーマンなのです。日本人はシャーマンにかかりやすいという弱点があるのです。
本当の意味でのエネルギーというのは、そんなものではありません。異能であればあるほど真実のエネルギーではないことを証明しているのです。人間の魂の救いというのは真実のエネルギーでなかったら絶対にだめです。エネルギーというのは、物理学的にも心理的にも働くのです。
宇宙には聖霊という最高の指導霊があります。霊にはたくさんの階級があるのです。人間に摩訶不思議を感じさせる霊もありますが、人間の心理状態を握ってしまう荘厳な霊もあるのです。
例えば非常に晴れた日に富士山を見ると、すばらしい感動があります。こういう時に人の魂が受ける感動が、本当のエネルギーです。このエネルギーは、数学的なものではありますが、人間の数学的な知識の範囲では捉えることができないものです。数学や科学をはるかに越えているのです。これがいわゆる最高の指導霊なのです。これを新約聖書は神の御霊(みたま)と呼んでいます。又、聖霊(せいれい)とも言っています。慰めの霊とか、真理の御霊と言っています。
真理の御霊はあるに決まっています。物理的に言えば太陽光線がそれを証明しているのです。桜の花が咲いていることが、本当のエネルギーの実体を人の魂に教えてくれるのです。ここにシャーマンの霊ではない最高の霊があるのです。シャーマンの霊は肉の霊です。真理の御霊は霊の霊です。
皆様の魂は絶対から生まれてきたのです。こういう言い方は非常に宗教的な表現方法になりますので、受け取りにくいと感じられるかもしれませんが、現在の日本語ではこれ以上正確にお話しする語法がありません。ヘブライ語ではできるでしょうが、日本語は神的事実を正確に表現することができないのですが、色々な例証をすればだんだんお分かり頂けると思います。
皆様の魂は神の元から出てきたのです。イエスは遣わされたと言っています。英語ではセント(sent)と言います。派遣されたのです。皆様の魂は神から派遣されたのです。現象世界というありうべからざる世界へ留学しているのです。
現象世界はありうべからざる世界です。この世にお生まれになった後天的な感覚で言いますと、現象世界は当たり前の世界ですが、宇宙という観点から言いますと、現在の地球はありうべからざる世界なのです。
地球という大きな生き物があるのです。ヘビがいるとかトンボがいるとか、ライオンが別個にいるのではないのです。人間を頂点にして地球存在という生物があるだけです。人間がいるのではない。動物がいるのでもない。草木があるのでもない。人間という存在の中に万物が皆含まれているのです。
皆様は植物を見れば、その生態がだいたい分かるのです。動物のことを書いた本を読めば、その生態が理解できるのです。今から五千年前のことでも、新聞やテレビで世界中のことを聞けば分かるのです。時間、空間に関係なく、一切のことが人間という理性の中に包含されているのです。そこで皆様が本当の自分を発見されれば、勝手に万物の霊長になれるのです。そうなるだけの可能性が十分にあるのです。
老子が無の働きと言っています。老子の中に無の働きという事実があったのです。それを老子は見た。それに基づいて万物がある状態を、老子が説明しているのです。これが無為の思想です。
芭蕉が月を見て感心した。芭蕉の中に月という自然現象があったからです。月という自然現象は宇宙の生命現象の発祥状態です。芭蕉の中に命があったので、外にある神の命に感心した。神は月を通して神自身の思想の一端を現わしているのです。
聖書によりますと、月や星は神の指によって造られたとあります。もろもろの天は神の栄光を現わし、大空は御名のわざを示すとあります。神の手の業が皆様にお分かりになりますと、皆様は地球全体を包含するすばらしい理性にめざめることができます。このすばらしい理性は神自身の理性で、それを皆様は受け止めることができるのです。
皆様は無限の可能性を持って地上に生まれてきたのです。イエスは風を叱ったり、波を叱っています。それくらいのことはすべての人にできるのです。固有名詞の自分を捨てて生ける神の子を実感されれば、イエスと同じことが感じられるのです。
今までの自分は死んでいく自分です。死ぬに決まっている自分です。こんなものを自分だと思わなければならない理屈はありません。
皆様は赤ん坊の時にはすばらしい萌芽をお持ちだったのです。生まれたばかりの赤ん坊の健康状態はすばらしいものだったのです。年数がたつとだんだん汚れものになってしまうのです。しかし、皆様の深層意識は生まれた時はすばらしいものでした。
生まれる前の自性が皆様の中にあるのです。ところが、これに気づく人は滅多にいないのです。皆様はこの世にお生まれになってから後天的に経験されたことは何でしょうか。ただ肉の世界の肉の経験だけです。これは動物人間の経験なのです。それを自分の経験だと思っている人は絶対に本当の人間にはなれません。自分を動物人間だというように正札をつけているのです。これが永遠に自分の価値判断になるのです。そういう正札をやめるのです。
死んでいくに決まっている人間、動物人間としての自分の意識がなぜ大切なのでしょうか。それを丁重に扱う必要はありません。どんどん捨てたらいいのです。
皆様の中にある五蘊は雑草が繁茂している状態です。これが皆様の常識です。これを五蘊皆空と言い切ってしまうのです。観世音することが、皆様がこの世に生まれてきた目的です。世音を見るのです。
この世で生活してみた所でしょうがないのです。結婚をして何になるのでしょうか。子僕を産んで何になったのでしょうか。課長になったり、社長になって何になったのでしょうか。何にもならなかったのです。皆様はそんなことのために生まれてきたのではないのです。森羅万象の命を学んで森羅万象を治めること、世々限りなく永遠に森羅万象を統括することが、皆様の本当の姿であって、現在の皆様はまだ生まれていないのです。
徳川時代に生まれて元禄の初めに死んだ祖元和尚が「不生の仏心」と、しきりに言っていました。人間はまだ生まれていないというのです。祖元和尚は神が分かっていなかったので、生まれるとはどういうことかということの説明ができなかったのです。だから、人間は生まれていない、現世にいるのは生まれる前の赤ん坊が修行しているだけだ、これが一切空の本当の意味だと言っていたのです。
まだ生まれていないのだから、現在の状態を見て良いとか悪いとか、善とか悪、利害得失という阿呆なことを考えるなというのです。これは幼稚な感覚ですけれど、新約聖書の基本と一致するのです。
実は皆様はこの地上で生活をするために生まれたのではないのです。生活をしてみた所で、しかたがない。ただ稽古をするために、何を善とすべきか、何を悪とすべきか、何が正しくて何が正しくないのか、これを見極めるために現世へ留学しているのです。生まれる前の留学をしているのです。
現世の皆様の生活は全部試行錯誤ばかりです。こうすればいいか、ああすればいいか、これが正しいか正しくないか、善か悪かを試しているだけなのです。八十年生きようと九十年生きようと、現世の人生は徹頭徹尾試行錯誤なのです。
本当のものをつかまえたという経験があるのでしょうか。本当に信用できるものが、人間にあるのでしょうか。ただ釈尊やイエスの考えたこと、言ったことだけが真実なのです。  私はただ新約聖書に書いてあること、般若心経に書いてあることを受け売りしているだけなのです。
皆様は私の言うとおりに聞き従う必要はありませんが、皆様の魂はそうではないのです。私は固有名詞の人間に呼びかけているのではありません。皆様の魂に呼びかけているのです。魂は私が言うことに聞き従うでしょう。日本人としての皆様はそれを受け取らないでしょう。
人間はこの世に何年生きていても、結局死ぬだけです。死ぬしか目的はありません。肉体人間は死ぬために、この世に生まれてきたのです。そのために魂について勉強するのです。
私たちは神の処置によって現世へ留学を命じられたのです。現世で生活するためではなくて、現世で知るべきことを学ぶために遣わされたのです。
皆様の命は皆様自身のものではありません。人間の命は貸してもらった命であって、それを自分の命だと思い込んでいることは、はっきり言って、横領になるのです。神は人間の魂を信任して命を貸し与えているのです。
日本では神と人の関係について綿密、厳正な考え方をしません。日本的なシャーマニズムによって考えれば、厳正に考える必要はないのです。日本人的な考えによりますと、万物の霊長として、自分自身を完成しなければならない責任があるとは考えないでしょう。 神人合一という言葉があります。神ながら、神のまにまにという言葉もあります。この言葉によれば、人間は神と同じ所まで成長しなければならないはずですが、これは宗教的な考え方であるために、必ずしもそうならなければならない責任はないと言うのです。
ところが、本当の意味での神と人との関係になりますと、宗教ではなくなるのです。命の本体は宗教ではありません。皆様の理性の本質はどこまでも真実を追求しているのです。良心は絶対の善を求めているのです。
本当の善とは何か。これが神の愛です。太陽光線の中にありありと現われているのが神の愛です。富士の景色の中に荘厳な形で現われている神の愛です。皆様は空気の中にも、一杯の水の中にも、野菜にも果物、魚にも、宇宙の愛を五官によって経験しておいでになるのです。神は皆様の魂を愛しているのです。ところが、日本人は魚に魚の味がするのは当たり前、リンゴにリンゴの味がするのは当たり前、毎年お米ができるのは当たり前と思っている。そうい、意識が皆様の記憶になってしまいますと、皆様の魂は留学させられている値打ちが全くなくなってしまって、背任横領を続けていることになるのです。そのような気持ちで現世を去ったらどうなるのでしょうか。神は皆様に神自身の愛を惜しみなく啓示しているのです。
皆様は神という絶対を地球上で十分に経験しています。朝から晩まで絶対を経験しているのです。時間や空間を経験しているのではなくて、神そのものを経験しているのです。神は命の実体です。命は神そのものです。生きていることは実に厳かなことです。これを正確に理解すれば、皆様は死なない命が分かるに決まっています。毎日神を経験しているのですから、この神が分かりますと、現世のあらゆる不安、矛盾がなくなるのです。
ありのままをありのままにはっきり見るのです。直視するのです。直指人心見性成仏です。自分自身の本当の気持ちを自分で指さすのです。汝はその人なのです。自分の本性を見れば成仏できるのです。この言葉は臨済宗のお坊さんがよく用いるものですが、これを本当に実行している人はいないのです。
生まれる前の自分が分からなければだめです。生まれる前の自分が分かりますと、初めて本性が分かるのです。これが本当の成仏であって、阿弥陀如来になることです。阿弥陀如来でも他力本願でも、自性成仏、自力も同じことです。皆様は自分の本当の姿を見つけるためにこの世に生まれてきたのです。
このことをよく考えて頂きたいのです。
 

 

bottom of page