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死を破る

 

 

人間は誰でも、自分の気持ちで生きていますが、これが死が怖いと思う根本原因です。明日は死ぬかもしれないというのが、神経質ではなくて、本当に真面目な命の見方なのです。実際、人間は、明日をも知れぬ体を持っているのですから、まだしばらくは生きているだろうという考えが、油断大敵です。今晩死ぬかもしれないというまじめな考えが、幼子的な考え方なのです。

新約聖書は、キリストの命を書いています。例えば、「わたしのくびきを負うてわたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイによる福音書11・29)といっています。イエスのくびきを負うとはどうすることかが、キリスト教では分らないのです。自分自身に生きないで、イエスのくびきを負うて、イエスに生きるのです。
これは、観自在と同じようなことになるのでありまして、自分に生きている間は、その人は死んでいきます。自分に生きなくなると、死ななくなるのです。イエスが復活した命が、自分自身のとこしえの命になるのです。
イエスは、大工の青年でした。この人が、死を破ったのです。日曜日は、イエスの復活の記念日なのです。世界的に、イエスの復活は、日曜日を休むという形で認められているわけであって、歴史的事実なのです。イエスが死を破ったのは、宗教的な問題ではなく、歴史的事実です。歴史の実体です。
歴史の実体を、神の御霊(みたま)によって、受けとるのです。神の御霊というのは、地球が、自転、公転している力、太陽が輝いていること、目が見えること、耳が聞こえることです。これが、皆、神の御霊の働きなのです。生命的エネルギー、天地自然の力を、神の御霊といいます。心臓が動いているのは、天地自然の力で、動いているのです。天地自然の力に同化しているのが、生かされている自分です。
客観的に生かされている自分は、死なないのです。主観的に生きている自分は、死んでいく人間です。主観的に生きている人間を、やめるのです。自分が自分であることを、やめるのです。
人間が存在する事実はないのです。しかし、地球全体を代表する、理性としての人間存在としての現象はあります。これは、現象であって、人間という事物とは違うのです。これを、イエスというのです。
釈尊は、自分自身を空じることを考えたのです。イエスは、天地自然に生きることを考えたのです。釈尊は悟ったのであり、イエスは救いを発見した。悟りと救いの二つがいるのです。これが、般若心経と聖書になるのです。
固有名詞の自分が生きていると、必ず死んでしまいます。固有名詞は、社会的存在として、なければ不便ですが、本体は、理性と良心、五官です。これはただの人です。イエスは、自分のことを、人の子といっています。人の子は、名なしの権兵衛ということです。
人の実体は、魂であって、固有名詞ではないのです。だから、死なないのです。これが、空を悟った人間です。外見上は、人間が生きているように見えますけれど、本体は、魂です。これを悟ることを、イエスを信じるというのです。こういう感覚で生きますと、イエスの復活が分るのです。
地球が、自転、公転していることが、神の力なのですから、神の力を自分の力にして生きるのです。天地自然の中へ、自分の命が消化されてしまうのです。これが本当の空です。そうすると、死ななくなるのです。
イエスは、歴史的事実によって、これを証明したのです。日本人は、非常に不勉強で、時間の流れを勉強していないのです。人間の歴史が始ってから、今日まで、時間がどのように流れてきたか。歴史の流れは、どういうものか。なぜ天地万物が、今のようなかっこうで現われているのか。こういうことが今の人間には全く分からない。なぜ分からないのかというと、現代文明を信じているからです。こういうことを、日本人は、ほとんど勉強していないのです。森羅万象が、そのまま、天地自然の命を現わしているのです。これが分ればいいのです。
現代文明は、ユダヤ人のトリックです。あるものをないように示し、ないものをあるかのように示しているからです。そんなものに、とりつかれているから、いけないのです。
イエスはユダヤ人です。ユダヤ人であるイエスが、ユダヤ人を、ひどく攻撃したのです。そこで、ユダヤ人が、イエスを殺したのです。
そのように、本当のユダヤ人であるイエスが、いんちきなユダヤ人を叱っているのです。現代文明は、ユダヤ人のトリックです。そういうものを信じているから、死んでいくのです。もっと、命の実体を、はっきり見るのです。
イエスは、幼児のようになって、神の国へ入れといっています。神の国とは何かというと、自分が生かされていることです。この中へ入ってしまえばいいのです。
人間は、自分が生きているのではありません。命は、人のものではありません。天地万物の命が個々の状態として、現れているだけなのです。自分の命があると思ってはいけないのです。そういう考え方が、思い上がりです。思い上がりをすてて、本当に謙遜になって、自分の魂を見るのです。魂とは何かといいますと、理性の本体です。魂に目を開くことが、魂の目を開くことになるのです。
永遠の命は、誰でも経験できるのです。寒の行をしたり、滝に打たれなくてもいいのです。考え違いをやめればいいのです。悔い改めて、福音を信じるだけでいいのです。
死なない命が分からないのは、死ぬべき命を持ったままで、知ろうとしているから、分からないのです。
例えば、右手にコップを持っているとします。この状態で、もう一つ何かをつかもうとしても無理です。コップを放してしまえば、何かをつかめるのです。
今までのあなたのお考えは、人間の妄念であって、これが五蘊なのです。自分ではしがみついているつもりはないかもしれませんが、今までの人間の執念、業に負けて、自分の気持ちで人生を見る他に、見方がないかもしれません。
人生を、自分が見るという見方のままで、死なない命をつかもうとしておいでになる。人生を自分の見方のままで見ているということが、土台から間違っているのです。
あなたの人生はないのです。命は大自然のものです。あなたは、命を自分のものだと思ってみえます。これが間違っているのです。まず、これをやめるのです。
命は自分のものではないという所から、自分の考えを入れ替えるのです。これからやっていくのです。
自分が自分で生きている間は、死なない命は分かりません。般若心経の五蘊皆空は、自分が生きているという気持ちを、空じてしまえといっているのです。自分が生きていることを、やめるのです。
新約聖書では、「古き人を脱ぎ捨てる」といっています(エペソ人への手紙4・22)。自分を脱ぎ捨てるのです。自分が生きているという気持ちをやめるのです。自分が生きているという気持ちを持ったままの状態で、キリストを知ろうとすることが、間違っているのです。
特に女の人は、気をつけて頂きたいのです。女の状態で、一人でこの世に生きている人は、全部地獄へ行きます。これは気の毒な状態なのです。女は魂を持っていないのです。男は魂を持っていますが死んでいるのです。女は魂を持っていない。そこで、女の人は、この世に生きている間に、生きかえった魂を見つけて、その霊魂の中へ帰るという方法しかないのです。これが女人往生なのです。
仏教では、女人は往生しません。女は往生できないのです。聖書には、女人往生があるのです。
死んだ霊魂の所へ往生しても、だめです。普通の男は、皆死んでいるのです。その男についていけば、女の人は一緒に死ぬだけなのです。
だから、生き返った霊魂、イエスの復活を経験している男の霊魂を見つけて、その中へ入るのです。女の人は、そうするしかないのです。
この世の夫とか、兄弟、先生はあてにはなりません。法律、道徳は、現世では通用しますけれど、この世を去ってしまえば、全然通用しません。魂は、魂としての道を、歩むしかないのです。
人間はこういう事を全然知らないのです。霊魂のことについては無知です。本当の神が分からないからです。だから、救われる人は、非常に少ないのです。本当の命をつかまえることのできる人は、めったにいないのです。
女の人は、霊魂の目が開いた男の中へ、精神的に入るしか方法がない。これは、夫婦でも、兄弟でも関係がないのです。現世の法律には関係がないのです。
 

 

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