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太陽系宇宙

 

太陽系宇宙という不思議なものがあって、私たちはそれを毎日経験しているのです。この不思議な奇妙なものを経験していながら、命が分からない人は、地獄へ行くしかないのです。
人間がこの世に生まれてきたのは、全く不思議な縁です。人間の霊魂がこの世に現われるということは、めったにないことです。千載一遇という言葉がありますが、世界が始まってから終わるまで、宇宙に大異変が生じて、神の御霊が人間の人格という形になって現われた。そうして人格が、一種特別の世界観、価値観によって自分自身のあり方の本体を会得することができるようになっている。この全体の構造のスケールを、客観的に眺めているのが、仏法の全体です。仏法の一万七千六百巻の仏典は、人間存在を客観的に眺めていますが、人間存在を客観的に眺めただけではだめです。
宇宙構造は、本質的に命という不思議なものによって、構造されています。本来、地球ができるまでは、そういうことはなかったのですが、地球ができたことによって、命の働きが全面的に押し出されたのです。これを天地創造と言うのです。
それを仏典は、全体的に説明しようとしているのですが、仏教は、人間が生きていることを踏まえて、その範囲内で人間の側から見ようとしている。だから、全体的なスケールが分からないのです。
お寺さんのお坊さんになるためには、唯識三年倶舎八年と言いまして、十一年間の修行をしなければならないのです。仏典は何を言っているのかと言いますと、万物があること、人間がいることを人間の側から説明しようとしているのです。だらだらと、色々な方面から説明しているのですが、結局分からないのです。命が分からないからです。
命が宇宙に展開しているスケールが、仏典ではつかめないのです。仏とは悟るという立場です。このスケールが小さいので、存在の根底の説明ができないのです。だから仏典をいくら勉強しても、本当の命は分かりません。出発点が小さいので、存在の根本の説明ができないのです。だから仏典をいくら勉強しても、本当の命は分かりません。
日本で、本当に仏教の研究をしたのは、道元と親鸞くらいです。弘法大師も日蓮も、もうひとつです。個性的な見解が強すぎるのです。道元と親鸞だけは、客観的に独自の立場から、命の本体に迫ろうとしたのです。
この二人は、非常に真面目な考えをしていたようです。本当に感心できるのは、親鸞一人でしょう。彼は一生懸命に勉強して、自力も他力も両方を学んだのですが、どうしても命の真髄に触れることはできなかった。とうとう、仏教をやめてしまったのです。ここが、親鸞の偉いところです。
親鸞の宗教は、強いて言うなら、乞食そのものです。乞食をすることが親鸞の宗教であって、現在の本願寺等とは、天と地ほどの違いがあるのです。
人間は宇宙構造が分からないので、人間存在が分からないのです。人間存在は宇宙構造を縮小したものです。人間存在の構造さえ分かれば、宇宙構造は自然に解明できるのです。神も仏も、自由に分かるようにできているのです。
人間の立場に立てば仏になります。神の立場に立てばキリストになります。ここが違うだけです。
宇宙構造と人間構造を、一つにして考えるとできないのです。二千年前に、イエスが現われました。それ以来、彼のような人間が、現われたことがありません。このイエスが死なない命を生きてみせたのです。死なない命をつかむためには、イエスの生き方を勉強する以外には、方法がないのです。この末の時代に、極東の日本で、神が神の思想を展開しようとしているのです。
現在の世界中の人間は、死んでしまう人間ばかりです。死んでしまう人間から、死なない人間に戸籍を変更しなければならないのに、これができない。なぜできないかと言いますと、自分の気持ちで生きているからです。自分の気持ちで生きている人間は、絶対にだめです。死ぬしかないのです。
宇宙構造と言えるものは、太陽系宇宙しかありません。太陽系以外に宇宙構造という言葉が使えるものがないのです。
太陽系宇宙の構造が、人間という一個の存在に縮小して現われている。これが人の子です。イエスと同じ状態です。
ところが、自分の気持ちで生きている人間は、全部悪魔の子です。これは死んでしまうに決まっています。死んだら地獄へ行くに決まっているのです。
イエスと同じ存在になってしまえば、宇宙と同じものになります。すべての人は、そうなる可能性が十分にあります。ところがそうなることを、人間は嫌がるのです。仏典や聖書の勉強をしようと思っているからです。これではだめです。
聖書があるのではありません。人が生きているということがあるのです。本当に心を開くことができれば、イエスと同じ状能になるでしょう。心を開かない人は、仕方がない。死ぬしかないのです。
地球計画というのは、人間計画です。人間は、後にも先にも、六千年の間、現われているだけです。その前にも後にも、全くありません。人間存在が現われて、自分の意志、自分の考えで生活し始めたのは、永遠から、永遠の宇宙の中で、たった六千年間だけです。顕微鏡で見ても分からないくらいに、小さな短い時間なのです。
しかも、現世に生きているのは、たったの八十年か、九十年です。その間に、イエスのような人間になるというのは、普通の人間ではできないことです。だから、どうしてもしなさいとは言えませんが、しなければ地獄へ行くしかないのです。
人間存在が、そのまま聖書です。それを知らずに聖書を信じようと思う。聖書の勉強をしようと思っている。だから分からないのです。
人が生かされている客観的事実を見ようとしないで、自分が聖書を勉強しようと思っている。このど根性がある人は、どうしても分からないのです。
女の人が料理を造ると、何ともいえないおいしいものを造ります。これはその人自身が、宇宙であることを証明しているのです。宇宙を縮小したものが太陽系宇宙であり、それを縮小したものが人間自身です。
地球計画と人間計画は、同じものです。神が地球を造ったことと、人間を造ったことは、同じ計画です。これにキリストというふりがなをつけるといいのです。
 人間は自分が生きているというばかなことを考えるから、これが全然分からないのです。自分が生きていると思っている人間に限って、聖書を勉強しようと考えるのです。
 パウロは次のように述べています。
 『しかし、信じたことのない者をどうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。述べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして述べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げるものの足は」と書いてあるとおりである。
 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、誰が私たちから聞いたことを信じましたか」と言っている。従って、信仰は聞くことによるのであり、聞くことは、キリストの言葉からくるのである。しかし、私は言う。彼らには聞こえなかったのであろうか。否、むしろ「その声は仝地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及んだ」』(ローマ人への手紙10・14~18)。
一体、福音とは何か。それが分からない。知らなかったという人がいるかもしれないが、森羅万象の姿、万物のあり方として福音が述べ伝えられたのです。目に見える形が声であり、神の言葉が美しさ、香り、味、景色となって現われているのです。太陽の輝き、雲の流れ、川の流れ、四季おりおりの草花、鳥のさえずり、動物、植物の営み、果物の美味しさ、牛肉の美味しさ、魚の美味しさは、すべて全地に響く声であり、言葉です。これが神の福音であって、これに関係がない人は、一人もいないのです。
パウロは、人間自身が現在生きている状態の真髄をそのまま述べているが、それが分からない。だから人間はみすみす死んでいくことになるのです。死ななくてもいいのに、みすみす死ななければならない状態になっている人間が、この地球上に68億人もいる。こんな愚かなことはないのです。人間は時間的に無限が理解できるのです。五十年前のことも、五万年前、五十万年前のことも、言われると分かるのです。これは、無限の時間が理解できることを意味するのです。
将来、地球がどうなるかということも、話を聞けば理解できるのです。永遠の過去と、永遠の未来とが、両方共理解できる。これは人の理性が、永遠性を持っているからなのです。
時間的なことだけではなくて、地球のこと、太陽系宇宙のこと、銀河系宇宙のこと、アンドロメダ星雲のこと、宇宙全体のことを聞けば、理解できるのです。
人の理性や人格は、神の御霊の霊の働きが、そのまま人の内に働いているのです。理性、良心という思考能力は、神と同じものなのです。神と同じ能力性、可能性を持っている。時間的にも空間的にも、無限から無限へのすばらしいスケールを持っているのです。
ところが、自分が生きているというばかなことを考えるのです。だから命に対して盲目になっているのです。自分の内にある能力を、冷静に考えてみてください。永遠から、永遠への、すばらしい能力性持っているのです。
ヨハネの黙示録第20章11節にある、大きな白い御座(great white throne)が、人が生きていることがらの真髄です。人の内にあるものは、集約的に言えばグレート・ホワイト・スローンと同じものです。
人間は無心になればすぐ分かります。自分という意識を捨てて、無心になればすぐに神に同化できるのです。本来の自分の本質に、とけ込んでしまえるのです。そうすると、皆様の存在が、神の御座の存在と同じになるのです。これが永遠の命です。
40年、50年勉強してもだめです。何十年聖書を勉強してもだめです。自分の存在を通ってみれば分かるのです。自分の存在を通ってみれば、それが、永遠無限の価値を持っていることが分かるのです。
自分が生きていると考えるから、それが全く無意味、無価値になってしまうのです。魂はめったにこの世に現われるものではありません。今、私たちは魂がいっぱいある条件のもとに生きていますから、魂はどこにでもあると思えますが、魂が人格として宇宙構造の中に現われるということは、未来永劫と言える無限の時間、無限の空間から考えても、めったにないことなのです。
普通、魂が自覚状態として現れるという不思議なことは、あり得ないことです。これはそのまま生ける神の子です。これが分からない人は、全部地獄へ行くしかないでしょう。自分という人間がいると思っている人は、地獄しか行く所がないのです。

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