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物心

 

ユダヤ人は、人間をどういう方向へ引っぱっていこうかという考え方が、できるのです。教育制度、民主主義的政治制度、流通、金融、保険制度という、資本主義の社会構造の根幹は、ユダヤ人学者が造ったのです。
日本人は、ユダヤ人の造った制度に、ついていくことしかできないのです。なぜ、ユダヤ人の考え方が、日本人とそんな違うかといいますと、その原因があるのです。それは、日本人の物の考え方が、小さいからなのです。霊魂、命といいましても、日本人は、現世のことしか考えないのです。
赤ん坊の五官の働きは、生れる前の働きです。人間の常識は、生れてからのものなのです。人間の五官の本質機能、甘いものを食べて、甘く感じるとか、花を見てきれいだと思うのは、神の命を、そのまま捉えているのです。
ところが、物心がつくと、だめになるのです。物心を持ってしまいますと、人間の業(ごう)にひっかかってしまうのです。この世に生れてきたことが、業に落ちたことなのです。
なぜ業に落ちるかといいますと、業に落ちている間に、死なない命を見つけるかどうかを、ためされているのです。
物心がついて、大人になっていくのですが、大人になるというのは、困ったことなのです。大人とは、業がかたまってしまったということなのです。神の命を、花という状態で見ていながら、これが分らないのです。これが、人間の業なのです。だから、空が必要なのです。
今まで考えていたことが、間違っていた。大人の考え、世間の考えが間違っていたことに気がつけば、目が開けるのです。これが、究竟涅槃です。究竟涅槃を、経験する必要があるのです。これを経験しますと、今までの自分の知識、常識、記憶が、何の価値もないことが分ってくるのです。
この世の記憶、この世の常識は、この世で生活をするためには、必要です。バスに乗ったり、電車に乗るためには、切符を買うという常識がいります。常識は、この世で生きるためには必要です。ところが、この世を去ってしまえば、一切通用しないのです。ナムアミダブツ、ナムミヨウホウレンゲキョウというお経も、死んでからは、一切通用しないのです。通用するのは、命の光だけなのです。
死ぬと、体や骨は、灰になりますが、この世に生きていた記憶は、灰にならないのです。魂が、この世で生きていた記憶を、しっかりだきこんで、死んでいくのです。そうすると、魂は困ってしまうのです。
命というのは、神と同じものなのです。神とは、示し申すということです。目の働き、耳の働き、舌の働きは、神の力が宿ったものなのです。舌が、砂糖をなめて甘いと感じることは、舌が、示し申しているのです。肉体が、霊魂の光になっているのです。生きていることが、霊魂の光になっているのです。
宗教がなぜだめかと言いますと、人間の常識をコントロールするだけなのです。
人間が、この世に生きてきたということは、魂が、時間、空間の世界へ、入りこんできたことなのです。世界に流れている歴史と、物理的に存在する自然現象の中へ、霊魂が入りこんできたのです。
ここで命を見つけようと思ったら、歴史の流れとか、地球が存在することについて、専門的ではなく、直感的に、素直な学び方をする必要があるのです。
魂は、時間、空間の働きと、一緒に生きているのです。花が咲いていること、太陽の光線が輝いていることについて、直感的に見ることが、霊の食物です。太陽の光が輝いていることが、霊魂の糧になるのです。
イエスが死を破ったのは、このやり方です。死んでから甦ったのは、時間、空間の本質を食べたからです。時間、空間の本質は何かと言いますと、言葉なのです。言いかえますと、遺伝子なのです。遺伝子というのは、宇宙の命に関する、情報なのです。
人間は、命のことは、何も知らないのです。生活のことは、ずいぶん経験していますが、七十年、八十年間、この世に生きていて、命について何が分ったのでしょうか。生活のことだけしか分っていないのです。
仏教は、時間、空間の説明をしないのです。時間とは、歴史の流れであって、世界歴史は、どのようにできているのか。白人、黒人、アジア人という、三つの民族がなぜあるのかを説明しないのです。
仏教には一万七千六百巻という膨大な経典があると言われていますが、世界歴史のことを、全然述べていないのです。
良くても、悪くても、ユダヤ人を中心にして、世界は動いているのです。アメリカを動かしているのも、ヨーロッパを動かしているのも、ユダヤ人です。ユダヤ人がなぜ世界を引きずり回しているかというと、理由があるのです。
本当の神と、人間との関係を説明しているのは、旧約聖書だけです。旧約聖書がなかったら、神と人間の霊魂の関係は、絶対に分りません。仏教をいくら勉強しても、霊魂のことは分りません。
神がないからです。神と霊魂の関係が分らなければ、死んでからの命は、全然分りません。
困ったことに、日本人は、旧約聖書を全く知らないのです。知ろうとしないのです。キリスト教の人々も、旧約聖書を勉強していないのです。ユダヤ人でさえも、旧約聖書を勉強していないのです。ユダヤ人が勉強しているのは、旧約の掟であって、旧約聖書全体を、正しく勉強していないのです。宗教ではない、キリスト教ではない、聖書が必要だというのは、このことなのです。
命に関する説明をする人が、世界にいないのです。
魂の働き、見えるという働き、味わうという働きは、神からきているのです。その証拠に、神が咲かせた花の美しさが、人の目に見えるのです。砂糖の味、塩の味、魚の味は、神がつけた味なのです。神がつけた味を、人の舌は、味うことができます。このように、人の霊魂は、神を味わうことができるのです。神を感じることができるのです。それほどの霊魂を持っていながら、全く神が分らない。これが、迷いなのです。
現に、人は、神と一緒に生きているのです。心臓が動いていることが、神なのです。これが分らないのです。
なぜ分からないのか。日本人は、聖書を敬遠しているからです。聖書をいやがっているのです。キリストという言葉を、いやがっているのです。これは、徳川幕府三百年の、罪悪なのです。これは日本人の業(ごう)です。恐ろしい業です。だから、日本人に、本当の命が分る人は、ほとんどいないのです。
素直になって、般若心経と聖書を見るのです。素直とは、自分で自分の気持ちを削るのです。聖書によって、人間の考え方を削るのです。これをすることが、命を見つけるための、心構えです。

 

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