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新約聖書に、万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するとあります(ロ―マ人への手紙11・36)。
心臓が動いています。目が見えます。これが神なのです。人間は、毎日、神を経験しているのです。目が見えること、耳が聞こえること、心臓が動いていること、脳波が働いていることが、神なのです。神の実物を、人は、現在、経験しているのです。神の実物が命なのです。
命とは、生れてくる前の前生、現在の命、現生と、死んでから後の命、来生を、貫いてあるものなのです。これを、円相といいます。例えば、活花の、天地人というのがありますが、これが円相なのです。
円とは、宇宙全体を意味する抽象的形態を現わしているのです。人の命は、本来、円相でありまして、これが分れば、もといた所へ帰ることができるのです。死んでから、命へ帰れるはずなのです。ところが、神が分らないと困るのです。宙に迷ってしまうことになるのです。これが霊魂の裁きでありまして、これがひどいのです。
現世で、五十年か、六十年生きていて、注意していますと、神の実物が分るはずなのです。もっとも、聖書の勉強をしないと分らないのですが。なぜ聖書を勉強しないと分らないかといいますと、地球ができた原因が、聖書以外には書いていないからです。
地球は、やがて消えてしまいます。できたものは、なくなるのです。これはあたりまえのことです。
人間は生れたのです。生れたものは、死んでいくのがあたりまえなのです。この全体を円相といいまして、神の実体がこの中心なのです。人間がこの世に生れて、文化という形で、人間の記録が始まってから、だいたい六千年程になります。北京原人がこの地球に生れたのは、五十万年程前です。しかし、彼らは文字という記録方法を持っていませんでした。人間が、文明人として、歴史的な記録をはじめてから、だいたい六千年になるのです。
人間の文明には、一つの流れがあるのです。流れに規則があるのです。それを仏教では法といっています。法とは、交通法規みたいなものでありまして、人間歴史六千年には、法の流れがあるのです。これを神の約束というのです。
これが、日本人には全然分っていないのです。日本人はそういう大きいものの考え方をしないのです。
地球が造られたこと、人間が発生したこと、今日まで、世界歴史が六千年間流れてきたこと、歴史が、これからどこへいくのかということです。これは、神の約束を勉強しなければ、絶対に分らないのです。日本人は、神の約束を勉強していないのです。
キリスト教でも、聖書を説いていますけれど、神の約束の根本原理を説明するキリスト教はありません。
アメリカ、ヨーロッパが、今日のように腐った原因は、聖書の勉強を真剣にしていないからです。
神の約束が、人間の歴史の大眼目です。古い約束を、旧約といいます。新しい約束を、新約といいます。旧約と、新約の原理が、世界中のキリスト教で分っていないのです。
キリスト教は、聖書の勉強はしていますが、神の実物をつかまえていないのです。キリスト教の牧師に、神とは何かと聞きますと、神は天地を造った方だといいます。天地を造った神が、今どこにいるのか。人の命とどういう関係にあるのか。こういうことが説明できないのです。
現在生きている人間の常識、知識が、空なのです。これを仏教では、人空というのです。人間が存在することが、空だというのです。
これをさらに細かく言いますと、我空といいまして、自分がいないというのです。もう一つ生きていることがないというのです。これを生空といいます。これが、釈尊の悟りをせんじつめたものなのです。
これが分りますと、初めて、神の約束の偉大さが分るのです。地球が、自転、公転している。太陽が輝いている。雨が降る。こういう現象は、宇宙の生命現象なのです。
これが、神の約束を原理にして、存在しているのであって、地球を地球としている力、太陽を太陽としている力が、本当の命なのです。
この命を、人は経験しているのですから、虚心担懐に、くだらない理屈を言わないで、本当に素直な気持ちになれば、神の実物をつかまえることは、必ずできるのです。
死んでからどこへ帰るのかといいますと、生れる前の所へ帰るのです。神から出て、神によって成り立って、神に帰する。これが、人の一生です。
キリスト教では、神は信じるものであって、理屈で割り切るものではないといいます。キリスト教の教義では、神の実体は、全く分らないからです。神が存在することを、初めから押しつけるような態度をとっていますが、これは、キリスト教としては、やむをえないことかもしれません。
仏教でも、ダルマとは何かといいますと、ダルマはダルマだといいます。法は法で、絶対だというのです。キリスト教では、神は神で、絶対です。絶対を説明せよとは、けしからんというのです。
ところが、聖書には、説明してあるのです。英語の、ビー(Be)動詞の、イズ(is)、アム(am)、アー(are)、が神の実体なのです。つまり、人間であることが、神なのです。花であることの、であるが、神なのです。これが、キリスト教では、全然分っていないのです。聖書が分っていないのは、神が分っていないからです。
旧約聖書の出エジプト記で、モーセが、あなたの実質は何ですかと、神に向って質問したのです。その時に神は、アイ・アム・ザット・アイ・アム(I am that I am.)と答えたのです。私は、アム(am)というものだといっているのです。
地球が地球であること、太陽が太陽であることが、神なのです。太陽が神ではありません。太陽が太陽であることが、神なのです。これが本当の神です。
現在心臓が動いていることが、神なのです。これが神の実物なのです。

 

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