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全体学を学ぶ


現在の宗教界で、霊について、正確な回答ができる人が、いないでしょう。だいぶ前になりますが、南禅寺の管長が、首を吊って死にました。南禅寺は、五大寺随一の大本山です。その管長が、首を吊って死んだのです。
この人は、職務としての管長という責任のある地位をあずかっていただけではなくて、雲水のおしゅけさんまでしていました。おしゅけさんができる人は、よほど禅に徹底した、禅の大家といえる程の人でなければ、できません。そうでなければ、数十人の雲水坊主に、それぞれ悟りを与えて、允可証明を与えることはできないのです。
この人は、東京大学を出て、又、京都大学も出たということで、学者としても、日本で一流の人物だったようです。それなのに、首を吊って死んでしまった。これは、どういうことなのかということです。
つまり、霊が分らなかったから、死んだのです。人間がいくら悟りを開いても、いくら学校へ行って、博士になっても、学者になっても、大管長になっても、結局、霊が分らないのです。今の日本人は、霊が分らないのです。
現代文明の正体をよく知らないと、霊が分らないのです。現代文明は、非常に悪質なものです。現代文明にかぶれている人は、現代文明を賛美するでしょう。現代文明で生活をしている人、例えば、学校の先生とか、大会社の社長、政治、経済、学問で飯を食べている人は、皆、文明をほめるでしょう。
しかし、まじめに生きようとする人は、現代文明に、訳の分らないもやもやしたものがあることを、感じているはずです。文明は、人間を生かして、魂を殺しているのです。これが、現代文明の悪い点なのです。
現代文明では、魂が分らないのです。宗教家が分らないのです。仏教でも、キリスト教でも分らない。仏典には、魂という文字がないのです。だから、説明のしようがないのです。
新約聖書には、魂という文字がたくさんあります。しかし、キリスト教の牧師は、魂という言葉の実体を、現実的に、具体的に説明することができないのです。霊が分らない。魂が分らない。人間の本質について、盲になっているからです。
人間の本心は、本当の願いであって、これは本願とも言えます。人間の本心は、この世で生活しているだけでは、決して満足していないのです。現世で、いくらお金を儲けても、家を建てて、保険をかけても、そんなことぐらいでは、本心のどん底に、安心が持てないのです。なぜなら、人の本質は、魂だからなのです。
文明には、二つの傾向があります。生活主義と、生命主義です。現代文明は、生活主義ばかりになっているのです。
現在の大学で教えている学問は、すべて、専門学ばかりです。専門的ということは、大変上等のように聞こえますが、部分的ということなのです。例えば、建築のことは、建築の専門家が勉強しています。しかし、それ以外のことは勉強していないのです。
専門的ということは、部分的ということです。しかも、生活主義的な部分的なのです。この世で、人間の生活に役立つことばかりを勉強しているのです。だから、生活的には非常に進歩しているのです。
今の人間は、生活の中心で、命を考えることができないのです。衣食足りて、礼節を知ることはあります。食べることに追われているようでは、とても仏典の勉強はできない。だから、食べるに困らないようになって、暇ができたら、般若心経と聖書の勉強をしようかということになるのです。
衣食が足る。生活が豊かになることは、いいことですけれど、衣食が足って礼節を知るという言葉は、孔子の時代にはそう言えたでしょう。ところが、現代人は、どれだけ衣食がたりれば満足するのでしょうか。今の人間は、満足を知らないのです。いくらでもほしいと思うのです。
現代人は、欲望主義になっているのです。欲望の満足が、人間の幸福だと思っているのです。
現代人は、好むと好まざるとにかかわらず、生活主義の文明に、引きずり回されてしまっているのです。大学では、これ以外の学問は、教えていません。だから、学問を勉強すればするほど、生活主義的になるにきまっているのです。その結果、大学を出た連中が、社会を指導しているのです。だから、社会全体が、生活一辺倒になってしまっているのです。命のことを、全然考えていないのです。考えられないのです。
人間と魂と、どう違うかといいますと、現在、私達は生きています。歩いたり、走ったり、話したりしています。これを常識で考えると、人間なのです。専門学的に考える人間なのです。
専門学的ではなくて、全体学があります。孔子、孟子、又、釈尊、親鸞上人も、こういう先哲賢人と言われる人が考えていたものは、専門学ではなかったのです。全体学で考えていたのです。
全体学は、人間の霊魂のあり方を、根本から考えるのです。人間は、なぜこの世に生れてきたか。私とはどういう人間なのか。何が人生の目的なのかを考える。これが全体学なのです。その中には、自ずから、科学的な分野もあります。政治的なこと、経済的なこと、法律的なこと、文学的なことが、全部念まれているのです。人間そのものを勉強すれば、文学とか法律、政治のことは、だいたい分ってくるのです。
そのように、人間は、現世に生きることが、目的ではないのです。現世に生きることは、現世にいる人間の目的なのです。
ところが、人間存在は、現世に生きることだけではないのです。死んでからがあるのです。生れる前があるのです。生れる前と、現在と、死んでからを見ることが、全体学なのです。
現世における生活だけで幸福になろうと考えますと、近世文明の考えになるのです。現代文明になるのです。これが、西欧文明の最も悪い所です。物質文明の最も悪い点です。
人間は、生活することはもちろん必要です。必要ですが、生活することは、自分自身を完成するためにあるのです。ところが、それを考えないのです。魂が、全く分らないからです。
常識で考えますと、人間がいると思えます。常識とは何かというと、般若心経で言う五蘊なのです。目で見たとおりのものがあると考えている。これを、色蘊というのです。目で見たことが原理になって、どのように思うか、どのように実行するかが、受想行識です。
ところが、五蘊が皆、間違っているのです。般若心経は全体学です。全体学の感覚で考えますと、人間の命は何であるか、命とはどういうものかを考える。これが全体学の目的です。全体学を勉強しますと、命に対する素質が、自らできるのです。
自分が、何のために生きているかということです。こういうことをまじめに考えますと、見たり聞いたりしていることが、人間ではなくて、魂なのだということが分ってくるのです。見方が変ってくるのです。
一輪の花でも、前から見るのと、後から見るのとでは、かっこうが違うのです。人間が生きていることでも、自分の見る位置によって、違って見えてくるのです。常識で考えると、ただの人間です。しかし、全体学の考え方で、命を頭において考えると、実は、人間ではなくて、魂になるのです。
魂として自分を見るのと、世間に生きている人間として自分を見るのとでは、命に対する見方が、全然違ってくるのです。ただの人間という見方は、後から見ているのです。魂という見方は、前から見ているのです。
現代のユダヤ人の中にも、自分達の考えは、大変間違っているのではないかと、相当問題にしている人々があるようです。
現代文明は、遠からず、非常に大きい変化が生じるだろうと思われます。文明は、根本から間違っています。だから核兵器がのさばっているのです。核兵器を廃絶せよといくら叫んでも廃絶できない。廃絶どころか、どんどん拡散しているのです。核兵器の拡散を防ぐことが絶対にできないのです。
私たちは、花を見て美しいと感じますが、美しいとはどういう事なのか。現代の専門学では説明できないのです。生きていることが魂だから、花が美しいと分るのです。美しいというのは、ソロバン勘定では分らないのです。科学では説明できないのです。これが魂なのです。
人間生活の中心は何かといいますと、美しいものを見たい、おいしいものを食べたい、楽しく生活したいということです。楽しいということは、科学や哲学では、説明できないのです。
人が生きていることが、霊なのです。ザ・リビングです。ただのリビングではなくて、ザ・リビングです。今生きていることの実体が、霊です。これは難しくないのです。ちょっと目を開く、全体学の立場から考える。現代文明のユダヤ主義ではなくて、人間存在を深く考えますと、初めて、命が分ってくるのです。
生活することがなければ、命は分りません。生活することは必要ですが、生活することだけに目的を持ってしまったら、いけないのです。生活することにおいて、命を考えること、これができなければ、何のために暮しているか、何のために生活しているか、分らなくなるのです。
今の日本人の生き方は、死ぬために生きているのです。今までの生活をまっすぐひっぱっていけば、死ぬだけです。他に目的はありません。こういう生き方ではなくて、生かされてることを、客観的に見て頂きたい。これが霊なのです。

 

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