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他生の縁


死とは何か。なぜ人間は死ぬのか。死の本質は何かということです。これは、生の本質と、比較対称して考えなければならないことなのです。
簡単にお話ししますと、いろはカルタの中に、「袖すり合うも他生の縁」というのがあります。この他生ということが、おもしろいのです。
人生は、現世のみではなく、過去世と、未来世の三つによって成り立っています。
人間が現在生きているのは、花が開いている状態なのです。人生という花が開いているのです。花が開いているとすれば、種があるはずなのです。命は、宇宙生命であって、宇宙生命を、個々の人間として、体験させられているのです。個々の人間の形で、体験させられていることを、生まれる、生まれてきたというのです。
現世が終わると、死ぬことになります。死ぬとは、どこかへ行くことなのです。他生とは、現世ではない他の生のことです。他の生とは、過去の生と、未来の生と、二つの生のことです。
「袖すり合うも他生の縁」というのは、現生だけではないということです。もし、人生が、現世だけのものであるとすれば、墓を造る必要はないのです。
現世だけが人生だとすると、非常に不公平です。現世で働かなくて、気楽に生活している人がいます。働いても、働いても、食べられない人もいます。アメリカのように、豊かな国もあれば、アフリカで、飢餓で死んでいく人もあるのです。
現世は、非常に不公平です。善人が、必ず幸福になるわけではない。悪人が、必ずしも不幸になるのでもない。このバランスはどこでされるのでしょうか。何のために、人間は善を行わなければならないのでしょうか。
現世は、矛盾に満ちています。間違った情報が氾濫しています。学問も、宗教も、本当のことを言っているものは、一つもないのです。
現在、大学で教えているものの中で、命とは何かが全然分からないのです。電気の扱い方の勉強はします。しかし、電気の本質の説明はできないのです。現在の社会は、情報が混乱している社会なのです。UFOがあって、宇宙人がいるようなことを言わなければ、文明を収拾することができなくなっているのです。本当の命が分からないから、そういうきわものの情報を流すことによって、人間の心をごまかしているだけのことなのです。
文明の情報は、嘘ばかりなのです。なぜなら、今生きている人間は、全部死んでいく人間なのです。
死んでいく人間の言うことが、本当だと言えるのでしょうか。六千年の文明は、死んでいった人間の造った文明なのです。
イエスが復活したことは、驚くべき問題ですが、これは、学問の中心テーマとして、取り上げられなければならないテーマなのです。しかし、人間は、生活のことだけしか考えないのです。命のことを考えていない文明は、全く、死んでいるとしか言えないのです。
イエスが復活したというのは、どういうことなのか。人間が死なないとはどういうことなのか。死とは、一体何であるか。こういうことをまじめに考えることが、本当の学問なのです。
現在生きている人間の命は何かといいますと、思いが命になって現れているのです。現在の文明人の思いは、聖書で言いますと、肉の思いなのです。肉の思いとは、情報のかん詰なのであって、すでに死んでしまっているのです。死んだらどうなるか分からない。命が分かっていない証拠なのです。
一体、死後の世界は何かということです。死ぬのは何か。魂が死ぬのです。
肉体的に生きていることの本質は、魂ですが、この魂が盲になっているのです。何を考えていいのか分からない。命とは何か、善悪とは何かが分からないのです。
そういう、あやふやな世の中が、現世であって、こんなものが人間だと思っていることは、大間違いなのです。
現世は、生まれてから死んでいく、ごくわずかな間なのです。七十年か、八十年で終わりです。七十年か、八十年生きている間に、命の経験にもとづいて、命の本質をどのように見つけるかということです。命が分かりますと、生まれる前の他生と、死んだ後の他生とが分かるのです。
なぜ、自分は日本に生まれたのか。これが他生の縁なのです。死んでから、どうなるのか。現世で、何を考えていたのか、どのような人生観を持っていたのか。その認識のあり方が、そのまま死後につながっていくのです。
肉体は火葬場で灰になります。しかし、生きていたという経験は、なくならないのです。生きていたという記憶が、死んでからつながっていくのです。これが、いわゆる死なのです。
死ぬという問題は、肉体的なことではなくて、精神的なことなのです。
 

 

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