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自力と他力


世の中には、宗教を信じている人が大へん多いのですが、仏教とか、キリスト教という宗教は、本来ないのです。人間が、勝手にあると思っているだけなのです。仏教教学、キリスト教教学はありますけれど、それは、宗教の仲間で通用する理屈であって、神の前には通用しないものなのです。私達は、永遠に通用するものを、求めなければならないのです。
この世を去りますと、寺も教会もない所へ行くのです。寺も教会もない所では、仏教もキリスト教も通用しないのです。本当の真理は、寺にも、教会にも、関係がないのです。
命の実質を、みきわめることです。般若心経には、全く宗教らしい所はありません。人間にご利益を与えるような事は、一つも書いてありません。
だから、般若心経を写経して、千円をつけて寺へ送ると、坊さんは喜びますが、ご利益はないのです。全くむだな事です。写経というのは、心へ書くものなのです。紙へ書くものとは違うのです。
自分自身の、永遠の命を考えるべきなのです。今の人は、般若心経の使い方、聖書の使い方を、知らないのです。
もし、キリスト教がなかったら、聖書を、今日まで、伝えることはできなかったでしょう。今日まで、聖書を伝えて、印刷して、何千万部という聖書が世界中に配布されたのです。キリスト教が聖書を持続してくれたという意味では、非常に良かったのですが、聖書の真理を伝えなかったのは、キリスト教の罪悪です。功罪、相なかばすることになるのです。
キリスト教が、ぴんからきりまで、全部悪いというのではありません。ただ、教義が悪いのです。彼らが伝えた聖書は、すばらしいものです。それは、命です。命である神を、教義として考えたことが、間違っているのです、マルクスの唯物論でも、ドクトリンとして、世界に通用するのです。多くの人間が、それを信じているのでが、これも間違っているのです。
現在の文明は、概念ばかりの世界です。概念の他に、何もないのです。学問という概念、社会主義という概念、概念ばかりなのです。道徳という概念、法律という概念、政治という概念はありますが、命の実体は、どこにもないのです。骸骨ばかりなのです。
私達が、勉強すべきことは、生きているということです。英語では、リビングということです。
聖書は、ザ・リビング・ゴッドといっています。リビングが、ゴッドなのです。生きていることが、神なのです。これをつかまえたら、理屈はいらないのです。理屈をいくら知っても、リビングが分らなければ、命はありません。
人が生きていることが、リビングであって、これが、そのまま、救いになるのです。ただ、条件が一つあります。それは、自分自身が今まで考えていたことが、間違っていることを、はっきり認めることです。条件は、ただそれだけなのです。思想や教義の勉強は、命ではないのです。私達に必要なことは、そういう勉強ではなくて、命の勉強をすることです。
問題は、イエスの名によって、どう生きるかということなのです。リンゴを食べると、リンゴの味が、魂の命になるのです。こういうリンゴの食べ方があるのです。これは、イエスが経験していた生き方なのです。このような方法で、リンゴを食べた事が、そのままイエスの命になったのです。
なぜ、そうなるのか。イエスは、父なる神のやり方を知っていたからです。人の大脳の細胞には、父なる神の処置があるのです。前脳皮質の細胞には、だいたい百四十億の細胞があると言いますが、普通の人は百四十億の細胞の中の、数%しか使っていないそうです。学者の中の頭が良いと言われる人でも、一部しか使っていないようです。
今の人間は、自分の脳の使い方を知らないのです。神の実体が分り、父なる神の名が分りますと、初めて、頭の使い方が分ってくるのです。信じるとはどうすることかが、分ってくるのです。
キリスト教の中では、本当に神を信じている人は、いないのです。宗教観念を信じている人はたくさんいます。しかし、神の実体を信じている人は、いないのです。リビングが、父なる神の実体であることが、分からないからです。
現在、私達には、生きているという事実があります。生きている事実がありながら、その実体を捉えようとしないために、概念や、観念、信念で、満足しようとするのです。これは、実に、困ったことです。困ったというより、もったいないことです。生きている、目が見えるという事実があります。これが、神という事実なのです。
人間の命は、与件です。与件とは、与えられた条件ということです。人間は、自分で生れたいと思って、生れたのではありません。男性は、男でありたいと考えたのではない。女性は、女でありたいと思ったわけでもない。両親を自分で選んだのでもないし、生れた年月日、国、民族を選んだのでもないのです。
人間は、びんからきりまで、全部与えられた条件ばかりなのです。これが、生かされているということなのです。自分の命は、全くありません。それを、人間は、自分が生きていると思っているのです。
これは、自力とか他力とかいうことではありません。自力といっても、他力といっても、実は同じことなのです。他力本願の阿弥陀仏でさえも、自力によって悟りを開かなければ、阿弥陀にはなれないのです。他力の根底には、自力があるし、自力の根底には、他力があるのです。
自力、他力という分け方は、宗教の分け方であって、そういうものを問題にせず、現に生きているという事実、みかんを食べると魂の命になるという事実を、直視しなければならないのです。
私達は、この世に生れたのですが、この世に生れたことが、業なのです。私達は、この世に生まれた以上、生れただけの責任を果たさなければ、必ず裁かれます。私達は、生ける神の実体が、分るような能力を、与えられているのです。宗教や、哲学を勉強しないで、幼児のような、素直な気持ちになって、聖書を見るのです。
とにかく、地球ができたことを、はっきり教えてくれるのは、旧約聖書以外にはないのです。人間は、現在生きています。地球は、自転、公転しているのです。これは、地球が生きている証拠なのです。
命が、現在、現象的な形で、存在している。働いているのです。この実体をつかまえるのです。
自分が救われようとか、何かを分ろうと考えると、だめです。できるだけ、無心になろうとすることです。幼児のような素直な気持ちになろうとすること、そうして、神の御霊の導きを受けるのです。神の御霊は、実は、地球が生きている実体なのです。エネルギーの本質なのです。これは、思想的にも言えますし、物理的にも言えるのです。理論物理学は、神の御霊の原理の、ほんの一部を、少し説明しているだけなのです。
せっかく、この世へ生れてきたのですから、命を勉強する必要があります。これが、人間ああるべき生き方なのです。
 

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