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「みずから」と「おのずから」


自という字を、「おのずから」と読むのか、「みずから」と読むかによって、意味が正反対になります。
「みずから」というのは、肉体的に生きている自分からということです。人間が肉体をもって、この世に生まれてから、「みずから」が始まったのです。自分が生きている。そこで、「みずから」となるのです。
「おのずから」というのは、この世に生まれてからではなくて、生まれる前に、人格の本質が存在していたということです。
五官の本質は、生まれる前から、霊魂に植えつけられていたのです。生まれた時の赤ちゃんは、だいたい二十四時間以内に、母親のお乳を飲みますが、その時、お乳の味が分かっているようです。
赤ちゃんに、甘すぎるものを与えると、いやな顔をするのです。大人が、ちょうどいいと感じられる味を、赤ちゃんの舌につけてあげると、おいしそうになめるのです。
赤ちゃんに味覚があるのです。にがいものは、にがそうな顔をする。甘そうなものは、甘い顔をする。お母さんのお乳の味が、分かっているのです。
そのように、人間は生まれた時に、すでに、味覚意識をもっているのです。味覚神経が働いているのです。五官の意識が、すでに働いているのです。
話しをすることはできませんし、自分の気持ちを発表することはできませんが、五官という点からだけで考えますと、大人と変わらない感覚を持っているのです。
人間の五官の本質は、「おのずから」のものです。「おのずから」というのは、生まれる前からということです。生まれる前から継続している人間の命の本性が、「おのずから」です。
「みずから」というのは、この世に生まれた後に、人間的な気持ちが与えられた。物心がついたのです。そこで、「みずから」ということになるのです。これが、自我意識です。
自我意識は、生まれた後に発生したのですけれど、「おのずから」というのは、霊魂の本性であって、五官の本質、人格の本質なのです。これは、生まれる前からの引き続きなのです。
生まれてきたという言葉があります。これは、どこからか来たものです。死んでいくというのは、どこかへ行くのです。
イエスが、「わたしはどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っている。しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない」と、言っています(ヨハネによる福音書8・14)。どこから来て、どこへ行くかが、はっきり分からないのは、魂が目をさましていないからです。
現在の命を、現世に生きているだけのものか、又は、永遠のものと考えるかです。現世だけで生きているのが、自分の命だと考える場合は、せいぜい自我意識を拡張して、自尊心を強く持って、生活したらいいのです。太く短く生きたらいいのです。自分の欲望を満足させて、太く短い生き方をすると、結局損であることを、霊魂は直感的に知っているのです。
それは、現世に生きている間だけが、自分の命ではないことを、何となく知っているからです。
だから、生きている間は、善事善行を行い、法律を守って、他人と仲よくしていくべきだと考えるのです。それは、人間の霊魂が、永遠性を持っていることを、知っているからです。
イエスの言葉に、「もし、だれかがあなたの右の頼を打つなら、ほかの頼をも向けてやりなさい」(マタイによる福音書5・39)という言葉があります。こんなことをしたら、人間は、損ばかりすることになると思うのです。
イエスは、現世に生きていることだけが人生ではない。現世の生活を通して、命を経験しているのだといっているのです。
命とは、永遠の命なのです。人間が生活していることは、そのまま、永遠の命を経験しているのです。
例えば、花を見て、きれいだと思います。花の命は、神の命の表現形式なのです。天然の命の表現形式です。
花は枯れます。しかし、死なないのです。人間は、死んでしまうのです。
花を見てきれいだと考えることは、人の目の働きに、死なない命を見わけるだけの力があるということなのです。
人間は、花がきれいだとなぜ思うのでしょうか。それは、人の魂に、花の色や形が、アピールしているからです。神自身が神の命を、人の霊魂にアピールしているのです。
神の本質、神の命を、花という形で、人の魂に、呼びかけているのです。
天然自然の命と、人がこの世に生まれた時の「おのずから」の命と、同じなのです。きれいだと思う時のハートは、自分の霊魂の本質を見ているのです。これを、新約聖書では、キリストの言葉と言っているのです。「信仰は聞くことによるのであり、聞くはキリストの言葉から来るのである」(ローマ人への手紙10・17)と書いてあるのです。
そのように、見たり、食べたり、聞いたりしていることは、肉体が味わっているのではなくて、霊魂が味わっているのです。人の五官は、魂の営みなのです。人間の営みとは違うのです。
人間は、霊魂の営みを、毎日くりかえしている。だから、自我をつっぱって生きる、やりたいことをしていると、結局損をするのは、霊魂なのです。
自我をつっぱるのは、「みずから」という肉体人間であって、やがて死んでしまうのです。肉体人間を自分の本質と思うか、魂人間を自分の本質と思うか、どちらかになるのです。

 

 

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