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死にたくないと思う本心

 

現在皆様は、常識で生きておいでになります。常識は、いわゆる顕在意識です。顕在意識は、現世に生きているという感覚で考えることです。
現世に生きているという感覚で考える時には、無意識に、現在生きている命を命だと思い込んでいるのです。
常識でお考えになる時、肉体的に生きているということが、たった一つの命だと思い込んでおいでになるでしょう。これは人間としては、当然のことです。肉体意識によって、常識で考えれば、現世に生きている人間が、命だと思えるのは、当然です。
これは死んでしまうに決まっている命です。例えば頬をつねると痛いと感じます。これは肉体的に生きている人間の感覚です。肉体的に生きているという条件での命です。この命は死ぬに決まっている命です。死ぬに決まっている命ですから、死なねばならないと、誰もが思っているのです。肉体的に生きていることを基準にして考えれば、常識的に死ななければならないと考えるのは、当然です。
ところが、本心では死にたくないのです。常識的には死ななければならないと思いながら、本心は死にたくないと考えている。ここに、人間の命の根本的な矛盾があるのです。
死ななければならないという考え方で、死にたくないという気持ちを、割り切ろうとしても、割り切れないのです。そこで、今までの自分の考え方を、空じることが、必要になってくるのです。
常識は般若心経で言えば、五蘊です。常識にこだわっていますと、魂の声が分かりません。人間の本心、仏教的に言えば本願とか本望と言いますが、これを無視してしまうことになるのです。
死にたくないというのが、本当の魂の声です。魂の声に従うべきか、常識に従うべきか、どちらかに決めなければならないのです。
現在、肉体的に生きている人間は、死ぬに決まっています。この命を自分のものだと考えるか、これを乗り越えて、死なない命をつかまえたいと思うか、どっちを取るかです。
本心に忠実になって頂きたい。本心にできるだけ素朴に、正直になってお考えになれば、死にたくないという本心はあるに決まっているのです。
死にたくないという本心を、本当に勉強しようと思えば、死ななければならないという常識を、かたづけなければならないのです。
死ななければならないという常識は、人間が肉体的に生きている思いから発生するのです。ところが肉体的に生きているというのは、人間の概念であって、人間の命の本体は、肉体的に生きているという条件によって、限定されてしまうものではないのです。
イエスが死を破ったという事実があるのです。これは歴史的事実です。イエスが復活したその記念に、日曜日があります。しかもこの日曜日は、一ケ月に四回、一年に五十回もあるのです。日曜日に休むというのは、仕事を休んだり、遊ぶためにあるのではない。イエスの復活の事実を静かに考えるためにあるのです。日曜日を休んでいる人は、自分はイエスの復活を知らない、イエスの復活に関係がないとは言えないのです。
現在全世界で、イエスの復活の事実をはっきりしるした新約聖書が、数多く売られているのです。新約聖書が、毎年、世界中のベストセラーになっているのです。
こういう事実が、歴史的にあるのです。人間は死ななければならないものではありません。イエスが死を破ったことによって、人間は死ななければならないという考えが、歴史的に、見事に否定されたのです。これが西暦紀元です。
人間が死ななくても良い状態におかれてから、2008年にもなるのです。ところが日本人は、不幸にして、聖書を素朴に、率直に読むことができません。だから、死なない命があるはずがないと、初めから思っているのです。
こういう日本人の考えを、入れ替えればいいのです。いわゆる五蘊皆空であって、自分自身の考え方、つまり目で見ている世界、意識している世界が、忘念だということが、お分かりになれば、もう一つの考え方が発生するのです。
今までの常識や知識によって、皆様の霊魂が、束縛されてしまわないことが、一番必要です。常識を信じることをやめて、率直に、皆様の本心を見ていけばいいのです。
常識は、現在生きている間だけしか、通用しません。生きている間だけしか通用しない常識を棚上げにして、イエスが死を破ったという事実を、受け入れて頂きたいのです。
イエスが死を破ったという事実は、すべての人が死を破ることができるということを、明白に示しているのです。
 

 

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