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自然現象の命


般若心経と聖書が、宗教ではないというのは、既成宗教ではないという意味でありまして、正しい宗教であるという言い方をしますと、他の宗教が正しくない宗教となって、けんかになるので、これをさけるために、宗教ではないという言い方をしているのです。
命は、重大な問題です。命は、原典から見ますと、令という字に口をつけたものです。
人間が生きている命には、必然性があります。つまり、自然法というのは、令なのです。命令の令です。掟になります。
人間は、肉体を持っている以上、自然法を無視することは絶対にできません。口というのは、人間が生きていることを象徴しています。口は、人口を意味するのです。令に口をつけると、現世に生きている命を意味するのです。
生は、大木が根をはって、立っている姿です。これは自然現象の命を意味するのです。自然現象の命は、新陳代謝はしますが、死ぬ命ではありません。医学が扱っている命は肉体の命ですが、イエスの復活の命を勉強して、死なない命を、患者に与えることができるような、すばらしい医者が、出現してもらいたいのです。
現在の文明は、人間に命を与えることができません。文明は、老化しているのです。老化しているというのは、頭が固くなっていることです。老化現象とは、固定現象なのです。
ついでにお話ししておきますと、私達がこの世を去ってしまいますと、記憶が凍結してしまうのです。これが黄泉(よみ)なのです。死んでから後の世界です。
現在生きている間は、自由に考えることができます。考えることが、全然できなくなることを想定してみて下さい。考える能力が、全然発揮できなくなった自分です。これが黄泉なのです。死んだ人はこうなります。その向こうには、地獄という恐ろしい霊魂の審判が待っています。
死んだ後の霊魂は、全くあわれなものです。現世に生きている状態のままで、せっかく命がありながら、この命を認識しないで、生活ばかりを考えているのです。それに対する税金を、しっかりとられることになります。これは、やむをえないことなのです。
心臓が動いていることが、神なのです。この神を、人間は無視しているのです。これは大変な犯罪なのです。大犯罪です。
命を冒漬しているのです。お金を盗んでも刑務所へ行かなければならない。命を盗むのは、それ以上に悪いのです。これは原罪の刑法では裁けない犯罪です。大きすぎて犯罪とは思えない大犯罪です。ところがこれを学校教育は奨励しているのです。
人の命は、与えられたものではなくて、貸し与えられたものです。借りものなのです。現代人は、命は自分のものだと、思いこんでいるのです。貸し与えられたものを、横領している。これは、背任横領です。
命は自分のものだと考えているだけで、人間は神に対して、立派な犯罪者になるのです。
人間の考えを解脱することが一番必要なのです。その意味で、般若心経を活用することが、必要です。そして、復活という本当の命を、つかまえて頂きたいのです。
生命の本質という点から考えれば、世界中の人間は、一人しかいないのです。一人しかいないというより、一種類しかいないといった方がよいかもしれません。
だから、常識が世界中に通用するのです。白人でも、黒人でも、砂糖をなめれば甘く感じるのです。そのように、生命の本質から考えますと、世界には一種類の命しかないのです。
私達が、本当の命を見つけようと思えば、自分の命を持っているという感覚ではだめなのです。永遠の命は、一種類の命だから分かるのです。この意味で、イエスが死を破ったということは、人類にとって、唯一無二の、絶対的な救いの確証になるのです。これがすべての人に提供されているから、これを黙ってもらってしまえばいいのです。これは、宗教の問題ではありません。宗教では、明確なことが言えないのです。
そのように、人間完成という状態があるのであって、個々の人間は、その個性を持ったままで、完成されるのです。しかし、本当の命を見つけた後の個性は、現在生きているような小さな個性ではなくて、もっと大きい、完成された、本当の大人になった個性です。
今の人間は、自分自身の利害得失があるような気がします。自分の利害得失があるような気がするのは、命の本体が分かっていないからなのです。
人間の利害は、一切ありません。損もなく、得もない。本当のものと、嘘とがあるだけなのです。
個々の生命は、永遠の形で完成されますけれど、その時の生命意識は、個人としての生命意識ではなくて、全体的な生命意識としての、正しい命をつかまえているのです。これが、イエスのあり方を証明しているのです。
 

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