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ザ・リビング


人間は現世に生きるために生れてきたのではありませんが、肉体的に生きていなければ、魂を捉えることはできません。だから、肉体的に生きることは、必要なのです。
命を求めていれば、生活はできるにきまっているのです。どんなに厳しい生活条件であっても、非常に失業者が多い条件であっても、素直に生きようという素朴な気持ちがあれば、必ず生きていけます。
だいたい、自然法があることが、神があることであって、私たちがしなければならないのは、宗教ではなく、公義の勉強になるのです。
宗教ではない般若心経というのは、公義としての般若心経になるのです。公義とは、地球が、自転公転をしている原理なのです。バンアレン帯がある原理なのです。
電場とか磁場というのは、地球にだけ、特別に働いています。地球にだけ、なぜこのような事実があるのか。火星にも、金星にもない。まして、土星や木星にも全くないことが、なぜ地球にだけあるのか。
地球以外の惑星に、人間みたいな生き物もいるという人がいますが、これはユダヤ人の世界観でつくりあげた、御伽噺なのです。
電場と磁場が、決定的に存在するのは、地球だけなのです。地球には、森羅万象が満ちています。これは、地球そのものが生きていることを示しているのです。地球が生きものなのです。人間が生きているのではなくて、地球が生きているのです。だから、人間が生きているのです。
人間が生きている命の本源が、地球の命なのです。これが分れば、生活は絶対安全です。働く誠意と、正しく生きる意志があれば、働けるにきまっているのです。そうすれば、生きていけるにきまっているのです。
現世で生きることだけが、命ではないのです。永遠の命、死なない命が、本当の命なのです。死なない命を見つけるために、新しい世界観を、創建する必要があるのです。
現世の命は、七十年か八十年位のものです。長くても百年くらいでしょう。本当の命は、現世をこえて、永遠にあるのです。これは主観的な自己認識をやめて、客観的な自己認識を持てば、すぐ分ることなのです。
人の本質は、固有名詞の人間ではありません。固有名詞の人間は、市役所に届け出されている人間です。これは、世間並に通用する人間なのです。これは、死ぬにきまっている人間なのです。
ところが、人の本質、例えば五官の働きの原点は、公義なのです。地球が存在する原理が、人の魂なのです。魂は死なないものです。魂という本当の自分を見つけないで、市役所に届け出している自分を、自分だと考えている。これは、死ぬ自分を、自分だと思いこんでいるのです。
だから、般若心経と聖書を勉強して、果して食べていけるのだろうか、世間に通用するのだろうかとつい疑いが生じるのです。これは、人間の迷いです。しかし、ただの迷いです。
人の本体、実質は、ザ・リビングなのです。ザ・リビングとは、心臓が動いていることなのです。目が見えるということがらなのです。これを魂というのです。固有名詞とは違います。固有名詞として現われてはいますけれど、実は、魂と固有名詞とは、何の関係もないのです。
自分の本当の原点を知らないで、世間並に通用する人間を、自分だけと考えている。これは、人生観の不徹底です。
命の本体は、人間ではないのです。魂です。生きていることがらの実体は、魂なのです。これが、ザ・リビングなのです。
イエスは、これを自覚したのです。だから、アイ、アム、インザ、ファーザー(I am in the father.)と言っているのです。父の内にあることが、私だといっている。つまり、自分に生きないで、神に生きたのです。
これは、神を信じることとは違うのです。人間が神を信じることではないのです。神の中へ入ってしまうことなのです。これが、イエスがした経験なのです。
神の中へ入ってしまうと、気楽なものです。神が愛の実体であること、神が永遠の公義であることが、はっきり分るのです。
自分自身に生きないで、神が生きるのです。これは、言葉で言えば難しいようですけれど、自分で生きている人は、必ず死にます。例え、生活が安全であっても、百才まで長生きをしても、死んでしまえば、何もならないのです。
固有名詞で生きていて、商売をしても、学問をしても、全く何もならないのです。自分の生命の本質について、何もならないのです。ただ死ぬだけなのです。魂の自分と、人間の自分を区分けをすることが、先決です。
現在の人間は、必ず死にます。必ず死ぬというのは、本当の命ではないということです。死なないのが本当の命なのです。必ず死ぬにきまっているということは、本当の命を経験していないということです。だから、命についての説明ができないのです。
今生きている命は、仮の命だ、空なる命だということです。五蘊という命を生きている。
五蘊で生きているのだということを考えていきますと、今生きている命が仮の命だということが、よく了解頂けると思います。
これが分かりますと、次に、本当の命はどこにあるかということが問題になります。それは、キリスト教ではない聖書にあります。そこに本当の命があるのです。イエス・キリストが死を破ったという事実です。これを勉強すればよいのです。
日曜日は、キリストの復活記念日です。復活記念日を世界中の人が、日曜日として守っているのです。
実は、今人が生きているということを、常識を捨てて、ありのままの命を見たいという気持ちを持てば、今生きている姿がそのままで、死なない姿になるのです。人間が生きているのではない。実は霊魂が生きているのです。
霊魂とは何かといいますと、神のことばが肉体的に現われたものです。神のことばというのは、五官の根本的な機能を言うのですが、それが五つに分かれたのが五官です。神のことばが、肉体的な状態で現われていることを霊魂というのです。
人が生きているのは、そのまま霊魂なのです。肉ではないのです。肉というのは、自分がいる、現象が実体であるという考え方です。霊とは、物事の本質、神の思考方式をいいます。
新約聖書で、肉の思いは死である。霊の思いは命である、平安であるといっています。霊の思いで自分を見ることができれば、死なない自分が分かるのです。皆様は、せっかく生きておいでになるのですから、死なない命を見つけて頂きたいのです。見つけたいと考えて頂きたいのです。
人間は初めからいないのです。天然自然によって生れたのが、人間という格好でいるだけなのです。これはどこまでも魂であって、人間とは違うのです。
死を破るたった一つの方法は、般若心経で空を悟り、聖書で今生きているのが、イエスだということを知ることです。
イエス・キリスト以外に死を破った人は一人もいないのです。釈尊も孔子も皆死んだのです。
死を破ったイエスが、実はあなたの本当の姿であることを知ることなのです。神はイエスをどのように処置したか、イエスを死人のうちから甦らせたとはどういうことかということを、勉強すればいいのです。
あらゆる人の命の実物が、イエスの命なのです。イエスの命が、実は人の命の実体なのです。人はこれを知るために生れてきたのです。
 

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