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写経


現在生きている自分を土台にして考えますと、般若ハラミタは、難しすぎることになるのです。
現在生きている自分を踏み台にしていますと、世間の常識が基準になります。世間の常識を基準にして考えますと、般若ハラミタも、聖書も、大きすぎ、高すぎて、分らないということになるのです。
宗教は、般若心経の場合なら、般若心経を、人間の常識の線に引き下ろして、勝手に解釈しているのです。般若心経は、婦人会とか、青年団、社会教育団体でも使っています。日本の神道でも、使っている所があります。
このように、般若心経は、一般に使われていますけれど、その意味はほとんど分らなくて、鵜呑みにされているのです。鵜呑みにするというのは、消化不良になって、かえってその人の内臓を害することになりかねません。
般若心経を写経して、千円をつけて寺へ送っている人がいます。般若心経を、金もうけのために使っているのです。金もうけに使っていない寺もありますが、般若心経を写経することが、はやっているのです。
ところが、書いても、書いても、本人が内容を知らないのです。観自在菩薩と書いても、それが何を意味するのか、分らないのです。行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空という字を見て書くのですから、誰でも書けるのです。ところが、何の意味なのか分らずに書いている。これは、全く鵜呑みにしているわけです。
毎日、般若心経を三回読むとか、五回読むという人はありますけれど、そういうことを無意識にしていますと、かえって、精神的に良くないのです。なぜかといいますと、般若心経を毎日読んでいますと、般若心経が分ったような気持ちになってしまうのです。般若心経が、自分の友人みたいな気持ちになってしまうのです。ひとかど、分ったような気持ちになってしまうのが、よくないのです。
これが、棒暗記でありまして、素読百遍意自ら通ずという言い方は、論語のようなものには言えるのです。論語の世界は、人間の常識の世界なのです。般若心経は、常識から出てしまった世界なのです。
常識から出てしまった世界ですから、素読百遍意自ら通ずというわけにはいかないのです。ここが難しいということになります。しかし、難しいからこそ、勉強する必要があるのです。分らないですましておける問題ではないのです。
人間は、けっこうな命を持っていますけれど、自分の本質をしっかりつかまえないままで生きていますと、ひどいことになります。全くひどいことになるのです。それが大変ですから、般若心経の空の本体を、受けとめなければならないのです。
読んでいる般若心経を、しつかり理解しなければならないのです。さらに、理解したなら、それを自分の生活にあてはめて、実行する所まで、学んで頂きたいのです。そうしますと、自分自身に、死なない命があることが、分ってくるのです。
人の命は、本来、死ぬべきものではないのです。ところが、世間並の常識で生きていますと、死なねばならないことになるのです。これは、もったいないことです。せっかくの命を、天から預けられていながら、その命を自分のものだと思いこんで、勝手に使っている。そのために、死んでいかねばならないことになるのです。つまり、自分の命に対する理解のしかたが、間違っているのです。
般若心経は、自分の命に対する理解のしかたを、まず教えてくれるのです。これが、般若心経のいい所です。人間が生きているのが、空であるといっているのです。
人間の常識、知識、学問は、この世にいる間だけ通用するものなのです。そのように、般若心経は扱っているのです。
般若心経と聖書が、宗教ではないというのは、この世を去った後に、活用できるものという意味です。この世を去った後にまで、永遠に魂の礎になるものが、宗教ではないということなのです。
宗教は、死んでから、極楽へ行くとか、天国に行くと言いますけれど、死んでからではなくて、今、生きているうちに、死なない命を経験しなければならないのです。
現に、私達は死なない命を預けられているのですが、命に対する認識のしかたが間違っているので、死ななければならないことになるのです。認識のしかたを勉強することが、人生の目的なのです。
これは、難しいと言えば難しいことですが、難しいといって、捨てておける間題ではないのです。永遠の命にかかわる大問題です。金がもうかるとか、もうからないという、小さな問題とは違うのです。生きるか死ぬかという大間題ですから、これを、しつかりと勉強しなければならないのです。
 

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