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人間と魂


この世の人間は、この世の常識で生きています。そういう生き方をしている人は、死ぬに決まっているのです。死ぬに決まっているけれど、その本質は魂です。
死ぬ人間は、肉なる形態です。しかし、その本質である魂は、死なないのです。
宗教は、肉なる人間、常識で生きている人間が、死んでから天国へ行くといっているのです。仮に、行けるとしても、この世に生きている間は、憎んだり、嘘をついたり、やきもちを焼いたり、ごまかしたりしています。そういう人間が、死んだからといって、すぐに根性が良くなるはずがないのです。
仮に、この世で嘘をついて、やきもちを焼いている人間が、天国へ行って、何をするのかということです。何のために天国へ行くのでしょうか。何をしに行くのでしょうか。
極楽へ行くというと、いかにも有難いことのように聞こえますが、極楽へ何をしに行くのかということです。
一服しに行くというかもしれません。しかし、一服というものは、働いているから値打があるのです。年中遊んでいる人が、一服するのは迷惑なことなのです。ちょっと働きたいと思っても、天国、極楽には仕事がないようです。
そうすると、天国、極楽へ、何をしに行くかということです。これは、ちょっと考えたら分かりそうなことですが、本当に困るのです。
死んだら天国へ行くということほど、無責任、無定見、無知な考えはないのです。宗教は、そのように無知な人間を養成しているのです。
宗教を信じていない人間はどうかといいますと、宗教は、信教の自由だというのです。信じようが信じまいが、どっちでもよいと、憲法に書いてあるというのです。だから、宗教ではない般若心経と聖書であっても、頭を下げる必要はないというのです。
仮に、キリストの復活が本当であっても、それに頭を下げる理由はないといいたいのです。キリストを信じなければならない法律があるわけではないから放っておいてくれ、したいようにさせてくれというでしょう。
今の人間は、死んだら天国どころか、極楽どころか、必ず地獄へ行きます。なぜかといいますと、自分に与えられている命の実体をわきまえないで、わがまま勝手に、命をこき使っているからです。
例えば、女性であることが何のことかということです。女性は、自然の用をかえて、不自然の用を求めるようになった。だから、男と女が体を汚しあっているというのです。恐ろしいことです。
魂が全然分かっていないからです。セックスとはどういうことかを全然知らないのです。だから、般若心経と聖書を勉強してもしなくても、どうでもいいのです。生活には、全く困らないと思うのです。神があろうが、仏であろうが、どっちでもいいのです。
神があるかないかということは、最も大きい問題です。仕事よりも、家庭よりも、結婚よりも、自分の命よりも、もっと大きい問題です。
人間の本質は、魂です。魂とは、神がこの世につかわした人の子という意味なのです。
人間は、勝手に生れたのではないのです。神がつかわしたのです。
神が派遣したのです。人を人間としてこの世に生きるように、神が仕向けたのです。神に仕向けられて、人間はこの世に来たのです。魂は、始めから、神の子なのです。
例えば、小便をしたくなれば、トイレに行きます。これは、魂の行動なのです。のどが渇けば、水を飲みます。これも魂の行動なのです。
魂は、神の処置に従って、神のあり方を、そのまま無意識に生活しているのです。無意識に生活しているが、生活の形を見てみますと、すべて神の子として、理性的に行動しているのです。理性的、又は良心的に行動することが、魂の本質なのです。
良心は何を求めるかといいますと、もっといいこと、もっといいことを求めるのです。無限の良いことを求めるのです。
一体、本当の善とは何であろうか。本当悪とは何であろうか。これが分からないのです。
善とか悪とかいう言葉を無責任に使っていますけれど、善というのを誰がきめたのか。悪を誰がきめたのか。こういう基本的な問題が、今の人間には全く分かっていないのです。
今の学校は、知能を啓発しているが、知能を啓発すればするほど、人間はばかになるのです。魂がばかになるのです。
本当にかしこくなるというのは、魂が目を開くことなのです。これをかしこむというのです。神に対して目を開くのです。神をかしこむというのです。神を拝むことが、かしこむことが、かしこくなる本当の道なのです。
宗教ではない般若心経は、人間が現在生きている状態は、空だといっているのです。聖書は、死を破るような本当の命を持ちたければ、聖書を信じるしかないといっているのです。聖書を信じるためには、空の心を持たねばならないのです。
魂は、神に所属しているのです。神の機能が、人格の中心になって、動いているのです。理性と良心は神の機能なのです。あまり嘘を言いすぎると、良心がとがめることがあります。良心がとがめるとはどういうことか。それは、良心という機能が、その人のものではないからです。神から与えられているのです。神が、人の行動を、じつと見ているのです。
良心が求めているのは、最高の善です。最高の善は何かというと、愛です。実は、愛が最高の善なのです。
太陽が輝いているのが、最高の善を示しているのです。足が、右左と交互に動くことが、善のしるしです。このように、人間は知らず知らずのうちに、神を経験しているのです。最高の善を経験しているのです。
神の人格は愛です。人間は、これを経験しているのです。神の愛が、太陽に、水に、空気に現れているのです。
人の体の生理機能は、全部神の愛の働きなのです。これが分かりますと、健康状態、精神状態が、がらっと変ってしまうのです。物にこだわらなくなるし、物事の真髄が見えてくるのです。そうしますと、人の命を、人の魂を、救ってあげることができるようになります。これが愛なのです。これは、キリスト教とは違います。
神とは何か。どうして神があると言えるのか。太陽が輝いていること、地球が自転、公転していることが、神がある証拠なのです。人の心臓が動いていることが、神がある証拠なのです。
ところが、自分の心臓が動いていることが、神とは思えないのです。なぜか。もし、心臓が動いていることが神であることが分かるなら、皆、聖書を信じるでしょう。もし、地球を動かしているのが、本当に神の力であるなら、聖書が本当の命であることが分かるで
しょう。
教会へ行っている人は、牧師がそれらしいことを言うから、ひょっとすると、天国へ行けるかもしれないと思って、行っているのです。まるで宝くじを買うような気持ちで、信じているのです。一体、神が本当に、あるかということです。
人間が罪を犯してから六千年の間、神は安息しているのです。これは、旧約聖書創世記二章に書いています。
神は造るだけのものを造った。人間の健康状態も、太陽も、地球の自転公転も、すべて造るだけのものは造った。神は、その造ったものを見て、はなはだ良かったといっているのです。そこで、安息したと書いているのです。これが分からないのです。
今、神は、安息しています。黙って安息しているのです。神があるかないか分からないのは、このためなのです。
神は自分の業(わざ)を休んでいるのです。神があるようには、いっこうに思えないのです。自分の鼻から息を出し入れしているのが、神のおかげであるとは、いっこうに思えない。神が安息しているからです。
なぜ、神が安息しているのか。神は安息して、じつと見ているのです。神が安息しても、神を恐れる心があるかどうかを、じっと見ているのです。
神が現れて、人を叱れば、一生懸命に崇めるにきまっています。それをしますと、本当に神をかしこんでいるかどうか、本当に神を信じる気持ちがあるかどうか分かりませんから、神が表面に現れないのです。ところが、宗教の神は、表に現れてくるのです。
聖書の神は、表に現れないのです。知らん顔をして、安息しているのです。だから、神があるかないかが分からないのです。神なんかあるもんかとなるのです。神があるかないか分からない状態は、実は、本当に恐ろしいことなのです。今、神は、人間の自由意志に任せているのです。
神は、神を知ることができるだけの充分の機能を人に与えておいて、人間がその機能を用いて神を発見するかどうかを、じっと見ているのです。これが、今の時代なのです。
やがて、キリストが再び来るという事件が起きます。イエス・キリストは再び来るのです。そうして、全世界のキリスト教は、かたっぱしからつぶされるでしょう。
今、神を信じたような顔をして、実は偽善者になっているのは、キリスト教会なのです。これがあぶないのです。
キリストの再臨という事件が、やがて歴史的事実として、この地上に実現します。その時に、神は安息をやめるのです。
神が、地球の政治に向って、直接支配します。新約聖書では、空中の権をとるサタンを追い落として、キリストが空中にすわると予告しているのです。これが、キリスト再臨の、驚くべき事実なのです。
世界の人は、こういうことを、知らないのです。全く、知らないのです。世界歴史の流れが、これからどうなるのか。神がぽかんとしているのか。年中神は眠っているのか。神はあほうでも、眠っているのでもないのです。人の腹の中まで、全部見通しているのです。
魂が自分であることが分かりますと、初めて、うっかりしておれないことが分るのです。理性が、永遠の真理を求めている。良心は、最高の善を求めている。永遠の真理とは、神の計画のことです。神の宇宙計画のことなのです。これをキリストというのです。キリストとは、神の宇宙計画の中心思想なのです。救いという意味もありますが、神の宇宙計画なのです。
良心が求めている最高の善は、救いです。神は愛なりという救いです。これが分かる人は、幸いです。
自分が生きていることが、すべての障害になっているのです。だから、自分の気持ちを捨てれば、本当のことがすぐ分かるのです。自分の気持ちを捨てることを、安息するというのです。
神が安息しているように、私達も安息すべきです。これが、本当の信仰なのです。神の安息の中へ、私達自身が入れられるのです。神と同様に、現世に生きていながら、安息するのです。自分の理屈で物を考えることをやめるのです。
自分の業(わざ) をやめるのです。信仰によって一切を神に任して、神のまにまに生きるのです。これが、本当の信仰なのです。
神は、道楽で地球を動かしているのではありません。ある目的をもって動かしているのです。動かして、黙って見ているのです。黙って見ている神に、黙って頭を下げるのです。その時、その人の魂は、初めて、永遠の命が分かるのです。死なない命が分かるのです。
 

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