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人間の実体は五官


人間は肉体的に生きていることを命だと考えている。これは命には違いありませんが、命を見つけるための命なのです。
今生きているだけの状態では、死んでいくだけです。神仏の加護によって平和な生活を送っていると考えても、それはただの観念であって、自分自身の魂をだまして生きているだけのことなのです。
現在の日本人は、文明の本質を知らないのです。文明と人間の霊魂がどういうかかわりをもつのか。そういうことに対して考える力を持っていないのです。
文明によって、命というもの、魂を考えることができないようにしむけられているのです。
人間の霊魂は人間の歴史の流れと同じ本質を持っているのです。歴史の流れの正確な理解がなければ、霊魂に対する正しい考え方は成立しません。歴史とは、人間全体のことです。霊魂というのは、一人ひとりのことなのです。一人ひとりのことと、人間全体のことは、本質的には同じことなのです。
ところが現代の日本人は、歴史の流れを全然知らないのです。政府がしていることだけを知っているのです。
日本人は間違った教育を受けてきたのです。自分で考える力が持てない人間になってしまっているのです。これは非常に気の毒な状態だと言わざるをえないのです。
この世の大人達は、とんでもない考え違いをしているらしい。食っては寝、食っては寝て、子供を産んで死んでいく。皆死んでいくのです。天皇をはじめとして乞食に到るまで、全部死んでいくのです。死んでいくために生きている。死んでいくために世の中を追っている。これをおかしいと思いませんか。
何のために日本社会があるのか。何のために国があるのか。これは日本だけのことではありません。欧米社会でも、アフリカ、南米社会でも、何のために数十億の人間が生きているかということを考えてみますと、世間の人間は理想も目的も持っていないのです。
人間が、ただ現世に生きて、食って寝て、子供を産むだけで人生が終わってしまうものなら、それでいいでしょう。理想も目的もなくてもいいでしょう。ただ自分の思ったように生きればいいでしょう。
ところが、人間には後生、来世があるのです。知ろうと知るまいと、後生は厳然としてあるのです。後生は真剣に考える場合に使った言葉ですが、今の日本人は後生という言葉さえも知らないのです。
人間の実体は五官です。食べたり、飲んだり、見たり、聞いたりしているのは、五官の働きなのです。五官の働きが人間生活の実態です。
五官の働きはどこからきているかといいますと、生まれる前に植えられたものなのです。生まれです。生まれる前に魂の原形ができあがっていたのです。五官の基礎になるべき機能性、人格性、機能的人格性があったのです。
ところが、現世に生まれて肉体を持つようになった結果、物心がついたのです。物心が根本から迷いなのです。般若心経がいう五蘊です。肉体的に生きていると思っている物心は、すべて幻覚です。人間は幻覚で生きているのです。だから本当のこと、命を考える力がないのです。実際あわれな状態です。ひどいものです。
日本には仏教はありますが、仏法はないのです。本当の釈尊の悟りは日本には全然ないのです。日蓮の宗教、法然の信仰、空海の信念はあります。空海の信念は空海の信念であって、釈尊の悟りとは違うのです。
釈尊の本当の悟りは、日本では現れたことがないのです。日本の歴史はわずか千四、五百年くらいのもので、浅いものです。世界の歴史は、五、六千年もあります。ユダヤでも、四千五百年ぐらいの歴史をもっています。
日本の歴史はわずか千四、五百年です。子供みたいなものです。だから日本人は何も知らないのです。仏も分からず、神も分からず、命も分からないのです。だから、食べて寝て、食べて寝て、子供を産んで終わりです。
この世に生まれる前に、霊魂の本質が形造られている。それが肉体を持ったことによって、物心という迷いを持たされた。物心という無明煩悩によって、めちゃくちゃにされてしまったのです。生まれるまでの霊魂の状態は、見るかげもないほどあわれになっているのです。
今の宗教はだめです。今の学問もだめです。ユダヤ教という宗教が、現在の専門学の基礎になっているのです。こういうことを結論的に言っても分からないかもしれませんが、そういう流れになっているのです。
人間はこの地球上で、六千年ほどの歴史を営んできたのです。文化的な歩みをしてきたのが、だいたい六千年位になります。ところが六千年の人間歴史の中で、人間とは何かということが、真面目に考えられたことがないのです。
ユダヤ人問題は、人間とは何かということを考えるための必要欠くべからざる急所なのです。日本人はこういうことを知らないのです。日本人は世界歴史の流れを、根本から認識していないのです。島国根性で、日本のことだけしか知らないのです。
世界歴史のことが分からないようでは、人間の霊魂の行く末は絶対に分からないのです。
個々の人間の魂は、人の中で潜在意識になっているのです。常識、知識は顕在意識です。生活上の意識は顕在意識であって、常識も知識も、間違っているのです。どう間違っているかというと、人間とは何かということを知らないのです。
神仏のおかげで生活が豊かになったといっても、神仏とは一体誰のことかというのです。分からずにただ神仏といっているのです。悲しい時の神頼みみたいなものであって、日本人はそういう意味では人生の定見を持っていない民族なのです。無宗教で無自覚の民族なのです。これが日本の島国根性の大欠点なのです。
般若心経は、釈尊の悟りの中心思想です。五蘊皆空、色即是空という考え方は、釈尊の悟りの中心思想ですが、五蘊皆空という言葉でさえも、今だかつて、日本で正確に説明されたことが一度もないのです。
親鸞上人は自分の業に往生したのです。セックスの問題です。彼は歎異砂で「いかなる業も及びがたき地獄一定の自分である」と言っているのです。いかなる患難苦行をしても、とても業を果たすことはできない。だから自分は地獄へ行くしかない人間だといっているのです。法然が言うように、念仏申して極楽へ行かしてもらう以外に手がないといっているのです。
こういう考え方が自分の霊魂を認識していない証拠なのです。親鸞上人でもそうなのです。人間とは何かということが説明できた人は、日本には一人もいないのです。
弘法大師は、曼荼羅の説明ばかりをしているのです。これは譬であって、全くの嘘ではないのです。
宇宙構造、社会構造、人間の心理構造を、曼荼羅で説明すると一番簡単です。しかし何の目的でそうなっているのか。なぜ宇宙構造が曼荼羅的であるのかが、一切説明できません。これは無責任であるとさえ言えるのです。
そのように、釈尊の本当の悟り、五蘊皆空という本当の悟りが、日本民族に全然分かっていないのです。五蘊皆空は曼荼羅みたいなおとぎ話とは違うのです。親鸞が考えていたいわゆる他力本願でもないのです。
他力本願という思想は聞達っていませんが、それはたとえ話です。阿弥陀如来は抽象人格であって、そういうものがあればいいと言って造りあげたものです。
日本には本地垂迹説という思想があります。日本の八百万の神々と阿弥陀如来とは同じようなものだというのです。そういうでたらめを言うのが日本民族なのです。インドの神さんと、日本の八百万の神さんをまぜて、味噌も糞も一緒にしたようなことを言っているのです。実際人間の霊魂をばかにしているのです。
本当の命が分かった人が、一人もいないのです。人間の魂の実体が何かが、全然分かっていないのです。日本文化の底の浅さをまず承知しなければならないのです。
世界の人間の歴史がどのように流れてきたか。又これからどのように流れていくのであろうか。人間の魂はどこから来て、どこへ行くのであろうか。こういうことを勉強しなければならないのです。
 

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