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電気とは何か


人間は、現在生きていることを、本当の命だと思っています。これは命には違いないですけれど、死んでしまう命なのです。
命には二つあります。死んでしまう命と、絶対に死なない命です。
現在の文明では、死んでしまうにきまっている命だけを、命だとしているのです。人間がそうしているのです。これは、困ったことです。これに対して般若心経と聖書は、この世の中の根本的な常識を、破壊するようなことを言っているのです。
人間は、皆、自分が生きていると考えています。自分が生きているという考え方が、根本から間違っているのです。
現在の人間の命は、死なねばならないにきまっているのです。死ななければならない命を、自分の命だと思っているのは、全くばからしいことなのです。
人間は、自分の思いに捉われている間は、自分の思いが間違っていることが、なかなか気がつかないのです。
命が自分のものだと考えている思いから開放されますと、死なない命にめぐりあうことができるのです。
例えば、太陽が輝いています。太陽の光線が雲にさえぎられても、明るいのです。太陽が輝いていることが、死なない命を示しているのです。
地球は、生き物なのです。ただの惑星ではありません。太陽系以外の銀河系の惑星は、ほとんどガス体でありまして、地球のような固形的な星は、太陽系以外にはないのです。火星とか金星は、太陽系の中にあるのです。地球に近い惑星だけは、土がありますが、地球からずっと離れてしまうと、半分はガスなのです。
地球は生きています。地球から生れるものは、全部生きているのです。地球から生れたものには、全部命があるのです。これは、地球が生きているからです。地球は生き物の母なのです。
地球はただの惑星ではありません。太陽から見れば、ただの惑星ですが、命という観点
から見ますと、太陽が、命そのものを現わしています。太陽に照らされて、地球の命があるのです。
地球には、電場と磁場があります。強力な電気が、地球に働いているのです。地球の命は、根本的に言えば、電気です。地球から電気をぬいてしまうと、地球の命はなくなってしまうのです。そうすると、電気とは一体何か。これは命なのです。
肉体が動いているのは、電気の働きなのです。頭の働き、五官の働きも、皆電気の働きでありまして、脳波が止ると、人間は死んでしまうのです。物が考えられなくなる。そして人間は死んでしまうのです。これは、皆、電気なのです。
ところが、電気とは何であるか。これが、分らないのです。生きていながら命が分らないのは、電気の説明ができないからです。
学校では、電気の使い方の説明はします。しかし、電気そのものについては、一切説明しないのです。これが、現在の人間が、本当に命を知っていない証拠になるのです。
太陽が輝いているのは、巨大な電気のかたまりなのです。死なない命が、そのまま人間に呼びかけているのです。太陽の光という形で、天から、誠の光を見せられているのです。見せられているというのは、呼びかけられていることなのです。
もう少し言葉をかえていいますと、呼びかけられている以上に、働きかけ、積極的な誘いかけをされているのです。例えば、男が女に求愛するように、働きかけをしているのです。
神と人間の霊魂の関係は、男と女との関係にたとえられるのです。私達が生かされているという形で、本当の命から誘いかけられている。呼びかけられているのです。
だから、生きていることについて、心を開いて、自分の今までの気持ちの中に閉じこもらないで、心を開いて、これに応じるような姿勢をとれば、死なない命を感じるはずなのです。
それほど難しくないのです。学問がなければ分らないのとは違います。命を知ることは、ただ心を開くだけのことなのです。
これは端的な実例になりますが、ずばり言いますと、神と人間との関係は、男と女の関係だという感覚で見ますと、女が男と一つにならないと、女はいつまでも、ただの女なのです。女が生きていても、男を知らなければ、女にはなれないのです。そのように、魂は、神を知らなければ、成長することはできないのです。絶対にできないのです。
神は、太陽の光という方法で、人間の霊魂に求婚しているような形になっているのです。これを受けとめる素直な心があれば、心にひらめいてきます。そうしますと、今生きている命ではない、永遠の命の実体が、理解できるのです。
女が男に心を開けば男が分るように、人間の霊魂が神に対して、天に対して心を開けば、命が分るのです。
文明は、字間という方法、教育という方法で、人間を盲にしている。教育というと、立派に聞こえますけれど、人間の魂を盲にすることなのです。教育によって、魂は、目つぶしにされているのです。
花を見れば、誰でもきれいだと思いますが、きれいとはどういうことか、これが分からないのです。おいしいものを食べれば、おいしいとお考えになるでしょう。おいしいとはどういうことか。
花を見るのは、ちょっと見るだけなのです。舌の上に物をのせて、よくかんで食べると、味が充分に舌にしみこんできます。味覚神経が、味覚意識に変ってくるのです。味覚神経は何かということです。
現代の医学では、病気は治します。しかし、命を与えないのです。味覚神経とは何か。医者では分らないのです。いくら病気を治しても、結局、死んでいくのです。これで、医学といえるのでしょうか。
病気を治す以上、命とは何かを知らなければならないのです。本当の健康体が持っている命が何かということです。単なる生理機能だけを見ていてもだめなのです。
健康体の人が、ころっと死んでしまうのです。これは死が分らないからです。専門学とは、そういうものなのです。
人間は、専門的に生きているのではない。全体的に生きているのです。全体的に命を捉えることができなければ、いくら病気を治してもだめです。結局死なねばならないのです。
命をはっきり捉えることになりますと、死んでもかまわないのです。生きている状態のままで、死なない命を経験できるのです。今皆様が生きている命は、死ぬにきまっている命なのです。この命ではない、もう一つ別の命があるのです。これは、イエスが死を破って復活した命なのです。死を破った命なのです。
今の人間の命は、死ぬにきまっている命なのです。それとは違う、もう一つの命があるのです。イエスが死を破ったという命です。この命を、天はただで提供しているのです。
山の姿に、おのずから死なない命が現われているのです。花がきれいに見えます。きれいというのは、死なない命の色なのです。おいしいというのは、死なない命の味なのです。ご飯を口に入れてかんでいますと、非常に甘い味がします。ご飯の味は、地球の命の味なのです。
地球の命の味が、ご飯になって、舌にアピールしてくるのです。ご飯の味は、地球の命ですから、地球の命は、死なない命にきまっているのです。それを、舌は味わうことができるのです。
そのように、五官の働きは、生れる前からの、命の働きです。生れる前の命とは、死なないのです。生れる前の命の味が、舌に感じられるのです。目にあるのです。耳にあるのです。五官の働きは、死なない命の働きなのです。だから、人間は、ご飯を食べたり、物を見たりして、きれいとか、おいしいとか、すばらしいと思うのです。それが、生れる前の五官の働きなのです。
生れる前の五官の感覚は、死なない命の感覚なのです。それが、現在、人の中にあるのです。それが、肉体的な命になって、生活しているのです。
この世に生れてから今日まで持っている、妄念、考え方が間違っているのです。親が皆様に教えたことも、間違いです。学校で習ったことも間違いです。
学校で習ったことは、この世の生活には役立ちますが、生命には、全然役に立たないのです。それが文明です。
学校で、学問を勉強すればするほど、魂が分らなくなるのです。命のことが分らなくなるのです。人間は、学校や世間で物を習ったために、命に対して盲になってしまったのです。
現在、物を味わっていながら、味が分らない。花を見ていながら、きれいということが分らない。きれいとは思うが、きれいとはどういうことかが分っていない。それが分れば、もう一つの命をつかまえることは、何でもないのです。
 

 

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