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人格

 

誰でも人間は自分の思いで生きています。ところが自分の思いで生きているという世間的な通有性が罪です。自分の思いで生きていることが、宇宙の本質に反するのです。
皆様の命は宇宙の本質、本性そのものです。宇宙の本質、本性が、命になっているのです。この命によって生かされていながら、人間は自分の思いで生きています。これが罪です。
これをできるだけ征伐すること、矯正すること、できるだけ自分の思いで生きないように努力することです。これが命を、永遠のものにする方法です。
現世に生きている間だけが人間の命なら、簡単です。死んでおしまいならそれでいいのですが、人間の命は宇宙の本質、本性であって、現世に生きているのは、命のごく一部です。現世を去ってからの命が、実は本体です。
命の本質は宇宙の本質です。宇宙の本質の命を、現世の常識に従って生きるとすれば、宇宙に反することになるのです。宇宙と現世は、大変な違いがあります。
現世は人間の常識で造りあげたもので、やがて滅んでしまうものです。現在の人間の歴史は、やがて跡形もなく消えてしまいます。
人間の歴史は、永遠不滅のものではありません。人間の歴史は神が許している間の、ほんのわずかの現象です。宇宙存在の実体は、永遠のものです。
日本人の考えは、この世に生きている間のことしか考えていません。これは日本人だけでなく、ユダヤ人の考えがそうなっているのです。現代文明の人間の考えは、現世に生きている人間の意識のことしか考えていません。現世の人間の意識は、肉の命です。肉の人間の人の思いです。肉の思いとは人間の自我意識と現象意識ですが、肉の人間の命はごくわずかの間だけです。これは本物ではありません。
常識的に生きている人間は、必ず死ぬのです。今生きておいでになる皆様の命は、必ず死ぬのです。それをよく考えて下さい。皆様は死ぬことが分かっていながら、その命を自分の命だと思い込んでいます。これが間違っているのです。
必ず死ぬことが分かっていながら、その命を自分の命だと思っていることを、罪というのです。
肉体的に生きているということは、必ず死ぬに決まっているということです。肉体的に生きている自分の命を、自分の命だと思っている人は、罪を犯しているのです。自分自身の命に対して、罪を犯しているのです。命を正しく見ていないからです。
命の本質は宇宙の実体です。宇宙の本質が命です。宇宙の本質に従って命を見ようとしないで、人間の生活に従って命を見ようとしている。これが罪です。聖書は肉の思いは死であると言っているのです。
肉体的に生きているのは、本当に生きているのではない。皆様が生きているのは、目が見えることです。耳が聞こえることです。これが生きていることです。
目が見えること、耳が聞こえることは、肉体においてではありますけれど、五官の働きは霊です。これが魂の中心になっているのです。これが命です。これは生まれる前の五官の経験が、そのまま現世に延長されているのです。これが死なない命です。
肉体は死ぬ命です。心臓が動いているのは、必ず止まる命です。心臓が動いていることと、五官が働いていることは、同じ命ではありません。五官の働きは霊の働きであって、心臓が動いているのは、肉の働きです。聖書の原点に従って自分の命を見れば、永遠の命のあり方を見ることができるのです。
ヨハネの第一の手紙にありますように、見たり、聞いたり、手で触ったりしているのは、地球ができる前の命の言(ことば)です。命の言によって万物ができている。花が咲いているのは、命の言によって咲いているのです。人間はそれを見ている。見ているのは死なない命を見ているのです。
そのように、初めからあった命の言が、本当の命です。心臓が動いていることによって、肉体の命が保たれていますが、現世に生きている肉体的な命は、現世だけの命です。心臓が動いているという医学的な生命と、本質的な生命とは、生命が違うのです。
人間の五官の働きの命は、死なない命です。従って五官の働きの命の実体は、生まれる前からの継続的な認識です。これは、聖書を正しく勉強して、水と霊によって新しく生まれることを経験しなければ、分からないことなのです。
肉の命ではない、霊の命で生きることが、命の本質です。そうすれば、その命はこの世を去ってからでもなくなりません。生きているうちに、死なない命を経験することができるのです。これは聖書を根気よく勉強すれば、分かるに決まっていることです。人間がこの世に出てきたのは、この命を捉えることが目的です。
自分の思いを、自分で否定する度胸がいります。そうすると救われるのです。
皆様の現在の命は、必ず死にます。死ぬに決まっている命を脱ぎ捨てるのです。そして死なない命に着替えるのです。
そのためには、自分の思いを自分で脱ぎ捨てなければならない。そうすると、神の言が自分の思いになるのです。命の本質が変わってしまう。これが命の入れ替えです。死んでしまうに決まっている命を、自分で握りこんでいますと、必ず死にます。死んでしまう命を、惜しまずに捨ててしまうのです。そうして死なない命を着るのです。新しい洋服を着るように、新しい命を着るのです。パウロがキリストを着ると言っているのは、これなのです。
 

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