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諸行無常


聖書を勉強するのに必要なことは、諸行無常を悟ることです。諸行無常が皆様に本当にお分かり頂ければ、聖書が非常によく分かってきますが、これがなかなか分からないのです。
諸行無常という言葉は明治時代の初めの頃までは普通に用いられていました。この言葉が常識になっていましたが、現在の日本人はこの言葉の意味が分からなくなっているのです。
聖書の勉強は常を尋ねることなのです。女性が本当に狙っている男性人格の本体は常です。聖書を勉強していくと分かりますが、女性が間違えたことが男性の間違いになっているのです。旧約聖書の創世記の二章、三章に、アダムとエバについての記述がありますが、エバが考え違いをした。これがアダムに及んで原罪の発生という大失敗をしたのです。
女性は心の底で何を求めているか。これが女性自身に分からないのです。女性は男性に従っているように見えますけれど、実際は女性に引きずられているのです。家庭は女性を基礎にしなければ成立しないのです。女性が何を求めているか。これは非常に大きい問題でありまして、これが色気の基本なのです。女性は自分の色気の本質を知らないのです。
常を尋ねるのが学の目的です。尋ねるとは英語でアスク(ask)とかシーク(seek)になるのです。聖書に神の国と神の義を求めよとありますが、これは捜し尋ねるという意味なのです。
聖書に求めよ、そうすれば与えられるであろうとあります(マタイによる福音書7・7)。この求めるはアスクになっています。アスクとかシークというのは、常になるのです。
求めるのは何か。これが身近すぎて分からないのです。皆様が生きておいでになるのは常です。ところが生きておいでになっている実体が分かっていないのです。
男の場合、求めることがなかなかできにくい。社会的に仕事をすること、生活の責任者になっているからです。男はすべて現世を基礎にして考えているのです。これが男に課せられた責任で、どうしても目の前にあることがらを判断するのです。これが男の常です。女性はそうではない。生を営むことが女性の常です。
パウロが常に喜べと言っています。この常は英語でオールウェイズ(always)ですが、これは日本語の常とは違います。常とは日本文化独特のセンスが入っているのです。今常を講義できる先生がいないのです。神をつかまえていなければ常が分からないからです。
常を尋ねることが学の目的なのに、これが一体何かが分からないのです。
常とは神そのものです。神の実物ですから、常が分からないのが当たり前です。生きているということが常で、これが神です。しかし普通の常、ありきたりの常ではない。簡単にいつも出会えない常、本当の常なのです。本当の常と世間並みの常と二つの常があるのです。これがややこしいのです。
十句観音経という短い経典があります。この中の常楽我浄が観世音の目的になっています。成仏有因、成仏有縁という言葉もあります。仏と一緒に原因があるということです。大乗仏教では人間が生きていることを客観的に見て仏と言っている場合があります。仏を人間人格の基礎的な法則であると見ているのです。
人間がこの世に生まれてきたことは仏において原因があるというのです。ところが仏教では仏の実体がさっぱり分からないのです。これは聖書の神の人間的な訳し方になるのです。
人間が今生きていることは仏さんに因縁がある。本来の自性が人間にありますが、本来とは生まれる前という意味なのです。生まれる前の人間の本当の姿が本来の自性です。自とはみずからでもあり、おのずからでもあるのです。自他一体になっている性は女でもないし男でもない。これが自性です。
人間の命の性(さが)の本体を自性と言います。これが仏です。人間の命の性が仏なのです。そこで自性を見ることを禅ではやかましくいうのです。座禅をくむ目的は自性を見ることだというのです。このように曹洞宗は言っています。ところが自性を見るにはどうすればいいかというと、各々勝手に見ればいいとなるのです。これが仏教の悪い所です。
悟りは人間の主観であるから、本人が悟ったらそれでいいと考える。十人いれば十色の悟りがある。百人いれば百色の悟りがある。こんなものは本当の悟りとは言えないのです。
本当の悟りは本来一つでなければならない。ところが仏教には絶対という概念がないのです。仏という言葉がありますが、仏は絶対ではないのです。従って仏を信じるものはいいとして、仏を信じないものはどうなるのか、信じなければ縁がないというでしょう。だから仏教はだらしがないと言わなければならないのです。
仏教で考える仏というのは、人間が造った概念なのです。抽象人格としてはあるのですが、これは絶対ではないのです。日本の八百万の神と同じものです。八百万の神は信じても信じなくてもいいのです。
仏は絶対ではないのに絶対のようにしているだけなのです。だから仏教では仏を信じなければならないとは言えないのです。阿弥陀如来と言っても形容詞なのです。人間の命のあり方を形容したものです。
そこで阿弥陀如来を信じなければどうなるのか。信じれば極楽へ行くとして、信じなければどうなるのか。極楽へ行けないとしたらどこへ行くのか。これをはっきり答えることができない。だから仏教は信じてもいいし信じなくてもいいということになるのです。
聖書は違います。天地の造り主があるのです。時間が流れているという事実があるのです。時間が流れているとはどういうことなのか。これが神なのです。絶対です。時間が流れていることの本体を捉えているか捉えないかによって、その人の命の本質が変わってしまうのです。
阿弥陀如来を信じようが信じまいが、人間の命の本質は変わりません。聖書には生ける誠の神があるのです。仏は人間が造ったものです。だから八百万の神と同じようなものになってしまうのです。ところが聖書の神は違います。本当の神とは何か。目が見えることが神です。皆様は目が見えることを経験しておいでになります。経験しておいでになりながら、自分の目が見えるとはどういうことなのか、これが分からないままの状態で死んでしまえば、必ず責任を厳しく問われる事になるのです。これが地獄の裁きの原因になるのです。
仏教の仏というのは、人間の魂を地獄へ追い込むだけの力を持っていません。ところが聖書の神は絶対であって、人間を容赦なく地獄に放り込むのです。神とは皆様の命そのものですから、これを悟れば救われますし、悟らなければ滅ぼされるのです。 イエスかノーか決まってしまうのです。キリスト教は宗教ですけれど、聖書の神は宗教ではないのです。
神は地球を造り、人間を造っているのです。
常とは何か。観世音を知れば常楽我浄の四つが分かるのです。十句観音経ではそういう説明をしているのです。常とはつねです。つねとは何でしょうか。常は英語では正しく訳せないのです。英語のオールウェイズ(always)とは違うのです。この常ほど分からないものはないのです。
神に生かされていることが常です。これを正当に正確に認識すれば死なないのです。常とは生かされているという当たり前のことです。常とは当たり前と訳してもいいのです。
ただある。人間がただいる。ただ目が見える。ただ山があり川がある。これが神なのです。これが、常のことです。当たり前のことです。ありきたりのことです。最も平凡なものが神なのです。神は最も偉大で、最も崇高なもの、そして最も平凡なことです。
宗教は神を金縁の額の中へ入れて拝んでいる。日常茶飯事の中にある神はキリスト教の
中にはないのです。
人の人格は神のペルソナと同じものです。最も崇高な人格の原理が神の三位一体です。これが人間の人格になっているのです。イエスは自分自身の人格において、神をそのまま実現したのです。
そこで常という言葉と無常とどういう関係になるかです。諸行とはすべての存在のことです。すべての存在はいつでも変化している。新陳代謝しないものはないのです。雲が風に流れているように、命が神に運ばれていくのです。いつも動いている。これを常というのです。
その反対があるのです。常と書いてとこしえというのです。ここが日本文化のややこしい所で、常というのがとこしえなのです。常時べったりという言葉がありますが、これには二通りの意味があるのです。常に流れていくのが常時だという解釈と、目に見えている状態が常時という解釈と、二通りの解釈が日本文化にあるのです。
諸行無常というのは、すべての物質的存在は一定の状態ではないというのです。いつも流れ動いている。ご飯を食べても三、四時間もすれば、お腹が空いてくる。人間の命はいつでも流れているのです。
すべての物質が新陳代謝している。物質が流れている姿で存在している。この感覚が神をつかまえるための第一原理なのです。
女の人が知りたいと思っているのは何かと言いますと、流れ動いている姿の本体は何か、その人格に自分自身を委ねてしまいたいというのが女性の本心です。
無常の本当の姿が男性です。これが分からないのです。この男性をつかまえようとするやみがたい願いが女性の本心です。創世記にありますように、男と女が本来あらねばならないことを間違えてしまった。これが死なねばならなくなった原因です。今の人間は死ななければならない命を持っていますが、その原因は女性が目的を取り違えたから発生したのです。この間違いを男性がよく考えで、これから脱出して常を捉えれば、とこしえの命をつかまえることができるのです。
 

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