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人間完成をするために

 

人間には、自分がいるという妄想があります。実は脳細胞の働きがあるのであって、自分という人間がいるのではないのです。脳細胞の働きをそのまま受け取らないで、自分が生きているという意識で、それを用いますと、脳細胞の働きを殺してしまうのです。
自分が生きているという妄念が、脳細胞の働きを殺してしまうのです。これが人間の霊魂が死んでしまう原因になるのです。死ぬということは、肉体が死ぬことを意味するのではなくて、霊魂が死ぬことを意味するのです。死ぬとは、神から離れることなのです。
人間が生きているのは、神そのものの働きであって、神の現われなのです。生きているとは、神が働いていることです。神の御霊が働いているのです。だから人間の命を、御霊と言います。人間が生きていることは、神なのです。だから、生きていることがスムースに分かりさえすれば、死なない命が分かるはずです。
私たちは、自己を完成するためにこの世に生まれてきたのでありまして、この世に生きていることが目的ではないのです。この世で生きていた所でしかたがないのです。六十年、七十年この世で生きていて何が分かったかというと、この世はうるさいものだということだけなのです。お金を持っていてもしかたがない。子僕や孫ができてもしかたがない。しかたがないということだけが分かったのです。
結局、人間がこの世に生きていることは、しかたがないと言わねばならないことを生きているのです。苦労して生きている。だから生括に目を向けて、それに一所懸命になってはいけないのです。
生活に目を向けないで、命に目を向けますと、人間完成という方向が分かるのです。人間完成をするためには、自分が生きているという感覚を乗り越えないとだめなのです。
例えば運動競技で言いますと、棒高跳びのバーのようなものです。自分が生きているというバーがあります。それをクリアーしなければ、絶対に規定の高さを乗り越えたことにはならないのです。これがいわゆる人間の業、カルマを乗り越えることなのです。
業を果たさなければ、生きていたことがすべてあだになるのです。自分の思い、自分の経験、自分の欲望で生きていますと、自分の業を果たさずに死んでいくことになります。十分に業を果たす能力を持っていながら、その能力を使用しなかった。責任をもって自分の人生を経験することをしなかったということになるのです。ただ自分の欲望のため、自分自身の思いのために、ついに業を果たすことができなかったのです。その結果、自分という人格のために、とり殺されてしまうことになるのです。
自分が生きているという感覚は、全くの妄念です。自分が生まれたいと思った人はいないはずです。従って、自分が生まれたという事実はどこにもないのです。
それでは、なぜ自分という意識がいるかと言いますと、私たちがこの世に生まれて、命を経験するためです。生きていることを経験して、生きていることがらが、実は神であったということを知るために、自分という人格がいるのです。
自分が生きていたのではない。自分という形で神を経験していたということを悟るために、自分がいるのです。これを悟ることができますと、初めて、自分が生ける神の子であった。リビング・ゴッドの子であるリビング・ソールであったということが分かるのです。
そうして初めて、万物を治めることができる人格を自覚することができるのです。命を自覚しますと、万物の真髄が分かるのです。森羅万象の真諦が分かります。森羅万象の真諦が分かりますと、これを治める方法が分かるのです。
宇宙の万物の長として、神のヘルパーとして霊なる地球を指導すること、神のヘルパーとして自らを完成することが、霊魂の目的なのです。その目的を果たすために、現世で命の実体を見極めなければならない責任があるのです。これは責任です。してもしなくてもどうでもいいことではないのです。人間として、この世に生まれた以上、魂の責任は果たさなければならないのですが、異邦人にはそれが全く分からないのです。
異邦人は、神がない民族です。本当の神が存在していない民族です。神の概念がないから、命が分からないのです。どうしたらいいのか分からないのです。
現在肉体的に生きていることが、五蘊に基づく命であって、この命を乗り越えてしまわなければ、本当の命を見ることはできないのです。般若心経はこれを言っているのです。 般若ハラミタという言葉は、彼岸に渡る知識を言っているのです。彼岸に渡るというのは、死なない命をつかまえることなのです。これが人生の目的なのです。
魂は、永遠無窮に発達する可能性を持っています。百四十億の脳細胞は、無限に発達する可能性を象徴しているのです。そのようなすばらしい能力を人は持っているのですから、これをどのように活用するかということを、精神構造によって決定しなければならない責任があるのです。
精神構造は非常に大きい力を持っているのです。例えば何かを食べますと、おいしいということが分かりますが、おいしいとはどういうことなのか。何を経験しているのかが分からない。
ただ舌で味覚意識としておいしいとだけ思ったのでは、肉体的な意味での生存を経験したことにはなりますが、魂の生存を経験したことにはなりません。肉体的においしいと思うことは、魂的にどういうことを経験したことになるのか。これが分かるだけの能力は、人には十分あるのです。ですから、それをしようとしない人が悪いのです。
現世にだけ生きていて、一体何になるのでしょうか。五十年、六十年この世に生きていて、何が分かるのでしょうか。この世に生きているのはいいのですが、ただ生きているだけではなくて、せめておいしいとはどういうことかを考えることです。
毎日、人は味覚神経によって生活しているのです。視覚意識、聴覚意識というものや、五官の働きで生きているのです。毎日五官の働きを経験しています。これが霊魂の経験なのです。これが分かれば、神と人の魂が結びつくことは十分にできるのです。やろうと思えばできるのです。
学問や宗教が悪いというのは、中途半端なものだからです。霊魂の完成に役立つものではないという意味です。ところが、現代文明は、科学、政治、宗教を完全なもののように言いふらしているのです。
科学は人間の生活形態の一つの方式にすぎないのです。完全なものではないのです。人間は生活するために生きているのではないのです。人間が生きているのは、霊魂の完成のためなのです。
人間は万世を貫いて、神のヘルパーとして万物を指導しなければならないのです。雲が流れていること、水が流れていること、鳥が飛んでいること、花が咲いていることを、指導しなければならないのです。そのために、神は花を見ること、月を見ることを許しているのです。
今の人間は魂としての自分の命について、まじめに考えようとしていません。これが、学問の欠点、文明の大欠点なのです。
人間がこの世に、五十年、六十年生きていても、何の価値もないのです。男が七十五才、女が八十才という平均寿命があります。長生きはいいのですが、ただ長生きしているだけでは、何の値打ちもないのです。ボケ老人ばかりを追っているのです。現世に生きていることが何のためかということを考えようとしないままで、ただ寿命を伸ばして、何の価値があるのかということです。
現世の命は限られた時間内です。限られた時間内に、無限の能力を与えられているのですから、百四十億の脳細胞のせめて半分でも回転すれば、すばらしい性能を持つことができるのです。これが本当のリビング・ソールというものです。
今の人間は、百四十億の脳細胞のわずか5%~6%しか使っていません。現世において、もう少し脳細胞を開拓したいと考えるのです。脳細胞を開発するためにはどうするのか。これは生活の問題ではないのです。
このことをするためには、分からないことを勉強するしかないのです。分からないと言って逃げていたのでは、いつまでたっても本当の命は分からないのです。
人間は現世において生活をするために生きているのではない。生命の実体をつかまえるために生きているのだと考えること、これが空じることなのです。生活目的を変えるのです。生存目標を変えるのです。座標軸の転換なのです。人生の方向を転換するのです。これを空じるというのです。
色即是空、空即是色、五蘊皆空、究竟涅槃という般若心経の忠告をよく聞くのです。般若心経は、現在日本だけにあるのです。日本以外には、般若心経の文化原理はどこにもありません。
日本人は般若心経を愛しています。これは大変結構ですが、愛するだけではなく、般若心経の言おうとする所を、良く弁えて頂きたい。そうすれば、人生行路をはっきり転換することができます。そうすると、生きていることが神だということが分かるのです。だから死ぬはずがないのです。
人は神と一つになって生きているのです。こういうことが分かりますと、世界歴史の流れ、ユダヤ人問題、西洋文明と東洋文明がどういう関係にあるのかが分かってくるのです。物理の問題と心理の問題も分かってきます。人間の精神の用い方によって、命の本質をやり直すことはできるのです。命の方向転換は、精神の方向転換によって、断行することができるのです。


 

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