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創世の原理

 

聖書は創世を原理にして考えなければ、分からないものです。聖書だけでなくて、人生そのものが、創世を考えなければ分からないのです。創世とは世が始められたことです。分かりやすく言いますと、太陽系宇宙が現象として現われたことです。
今の学問は、太陽系宇宙を知りません。現在地球に住んでいながら、太陽系宇宙があることの意味が分からないのです。
人間は見ていることが習慣になっていますので、見ていることが何をしているのか、分からない。皆様は生きていらっしゃいますが、生きているとはどういうことかが、全然分からなくなっています。
聖書は命の実質、実体を説明するのが、目的です。キリスト教は、人間が救われるか救われないかということばかりを問題にしています。キリスト教では、キリスト教のドクトリンばかりを教えています。そんなものをいくら習っても、何にもならないのです。キリスト教は、人間生活が豊かになることを教えているのです。聖書はそういう人間を否定することを述べているのです。
いいか悪いかを考えたら、だめです。神様を信じようと考えたら、もうだめです。イエスは心が貧しい者は幸いであると言っています。これは霊において貧しいという意味です。   霊において何も持っていない者は、幸いだと言っているのです。キリスト教の人々は何かを信じる、何かを祈ることをしなければならないと思っている。これは貧しくない状態です。霊とはありのままの状態です。ありのままになれとイエスは言っているのです。
宗教で考えているイエスと、宗教ではないイエスと、どう違うかと言いますと、宗教で考えているイエスは、小便をしないイエスです。小便をするイエスをいうのは、不敬謙だというのです。
ナザレのイエスは大工の倅でした。そのイエスは小便をしたに決まっているのです。イエスは肉体を持っていました。ヨハネの第一の手紙に、「あなたがたはこうして神の霊を知るのである。即ちイエス・キリストが肉体をとってこれたことを告白する霊は、神から出ているのであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは反キリストの霊である。あなたがたはそれがくると聞いていたが、今やきているのである」(4・2、3)とあります。
イエスが肉体をとってきたことを、ビリピ人への手紙の二章では、イエスは、罪人の形をとってきたとあります。神の一人子と同じ内容を持っている自分を捨ててしまって、罪の意識を持っている人間と同じ形をとってきたとあります。これがキリスト教では分からないのです。
イエスが肉体的な形を持っていた。肉体的な形を持っていたというのは、そのまま肉の思いの本質と同様のものを持っていた。普通の人間と同じように、罪を実感することができたという意味です。普通の人のセックスの感じと同じ感覚を、イエスは持っていた。ただセックスの感覚を、欲望として持っていなかった。普通の人はそれを欲望として持っています。感覚は同じですが、欲望であるかどうかが違っているのです。これは聖霊を正しく受けて、それを崇めることができれば、経験できるのです。
性に対する感覚は同じものですけれど、欲望として持つのではなくて、感覚として持っていることになりますと、誘惑されることはあっても、それに溺れることは絶対にないのです。ここが違うのです。
イエスも誘惑されるような経験をしていたのですが、溺れることはなかった。いくら肉性を持っていても、誘惑されても、溺れなければ、肉性の経験にはならないのです。肉性の実行にはならないのです。
イエスは天使の下にいなかった。天使の上にいたのです。これはヘブル人への手紙の二章六節をごらんになれば分かるのです。栄光と誉れを与えられた人間が、天使の下に置かれていると言っています。
普通の人間は、天使の下に置かれている。天使とは、肉体、森羅万象です。万物の下におかれている人間は、自分の欲望に勝つことができないのです。
イエスは欲望と同じ感覚を持っていたが、欲望の上にいたのです。天使の上にいるか下にいるかの問題です。
聖書の勉強は持ち前の天質によるのです。天質的に生ける神の子になれる人と、なれない人とがあるのです。イエスは、すべての人が皆、同じように信じることができるのではないと言っています。だめな人はだめです。イエスの直弟子であっても、ユダのような人間もいるのです。
霊の天質を与えられている人と、人間的な熱心さで勉強している人とでは、根本的に違います。
皆様が本当に神に所属したいと思っているか、宗教を信じたいと思っているか、どちらなのかということです。
実は、皆様が鼻から息を出し入れしていることが、そのまま神の国です。生理機能、心理機能が神の国です。これは驚くべきことですが、事実です。
イエスは大工の倅でした。そのままの状態で、生ける神の子の実体を持っていたのです。彼は人間が持っているセックスの感覚を、十分に知っていた。知っていたからこそ、姦淫の念を抱いて女を見るということを、発言しているのです。イエスは自分が実感できないことを、言っていないのです。実感できるから言っているのです。
小便をする人間には、小便をする救い主がいるのです。セックスに興奮する人間は、セックスに興奮する欠陥を持っている救い主がいるのです。ただし興奮しても、溺れることはないのです。
これがキリスト教では分かりません。キリスト教のイエス・キリストは、小便をしません。セックスなど全然考えないのです。金縁の額におさまっているキリストです。
一体処女懐胎とはどういうことか、マリアがどうしてイエスを産んだかということです。イエスは天から来ました。私たちは下からきたのです。イエスが天から生まれたということが、どういうことか分からないのです。処女懐胎の内容を、聖書の原理に従って説明する人は、誰もいません。天地創造の原理が、分からないからです。創世記第一章の説明ができないから、分からないのです。なぜ人間が肉体を持たなければならないのかということ、ノアの洪水のこと、アブラハムに約束を与えたこと、こういう旧約聖書の根本的な原理に対する、明確な認識が、絶対に必要です。
この勉強を、ユダヤ人もキリスト教の人々もしていません。創世の原理が分からない人は、聖霊を受けられないのです。神の御霊によって聖書を読むことができないからです。だからイエスが分からないのです。
天から生まれたとはどういうことか。この世から生まれたとはどういうことなのか。世に対する認識ができていないのです。神がなぜ世を造ったのか。この世は滅びるに決まっています。この世に属する人間は、この世と共に滅びるとイエスは言っているのです。
宗教の教義と、聖霊による聖書の解釈は、全然違います。救われる、救われないというのは、相対の世界のことで、どうでもいいのです。
新約の時代は、幸いな時代です。イエスの十字架によって、皆様の肉は滅んでいる。死んでいるのです。イエスが肉にて殺されたことによって、皆様の肉がなくなったのです。イエスはキリストです。キリストは全人類の代表者です。
キリストが十字架につけられた。この時、全人類の肉体的存在は、はっきり消えたのです。その証拠に、一センチもある神殿の幕が裂けたのです。これは聖所と至聖所が一つになったこと、神の国とこの世が一つになったことを意味しているのです。霊によって見れば、世界中は神の国なっているのです。これが十字架の原理です。
イエスは肉体を持っていました。肉体を持っていたということは、肉体を持っている人間と、同じ感覚を持っていたのです。しかし、同じ欲望を持っていたのではありません。感覚があっても欲望がなければ、欲望に溺れることがないのです。溺れるのは、感覚を欲望的に用いるからです。霊的に感覚を用いれば、溺れることはありません。
エノクがその良い例です。彼は三百年の間、神と一緒に生きていた。その間に男子と女子を産んだと書いているのです。五人以上も産んだらしいのです。彼はセックスを実行していたが、神を辱めることはしなかったのです。だからエノクは携挙されてしまったのです。この世に生きている必要がなかったので、神が天に上げてしまったのです。
このように、性の機能と、欲望とは何の関係もありません。これは聖霊を崇めるか崇めないかによって決まるのです。
本当に聖霊を受けるということは、今の世界にはありません。使徒行伝第二章の経験をしている人は、めったにいないのです。ほとんどいないと言ってもいいでしょう。
現在の皆様は、損か得か、儲かるか儲からないか、善か悪か、正しいか正しくないかという相対の世界に生きておいでになります。これは死の世界にいることになるのです。
目が見えること、耳が聞こえることが、生存の原理です。五官の力が皆様を生存させているのです。ところが皆様は、五官の力を無視して、自分で生活しています。だから死んでしまうのです。
目が見えるのは、天然の力によるのです。天然の力とは生まれる前の力ということです。生まれる前の命が、そのまま現世に働いている。この命が分かる人は、自分の五官が、前世からの力であることが分かるのです。
前世からの力がなかったら、五官は働くはずがありません。五官の力とは、先天的なものです。先天性というのは、生まれる前からの本質性、原質性です。視覚神経の本質性で見ているのです。視力の原質は、生まれる前からの先天性です。これが死なない命、天からの生命です。
 

 

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