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錯覚の牢獄

 

人間は自分を捨てるのが大変難しいと考えますが、そう考える理由は、現世にいる自分が何かのプラスになるような気がするからです。肉体的に生きていることが、何かの役に立つような気がする。ところが、役に立たないのです。肉体的に生きているという事自体が、全く役に立たないのです。
イエスは、肉は益なし(ヨハネによる福音書6・23)と言っています。肉体的に人間が生きていることに益がないのです。
ただ一つ益があると言えるのは、イエスが生きていたのも肉体的であった。自分の肉体とイエスの肉体は、同質のものだということに気がつきますと、自分の肉体が霊体になってしまうのです。肉体が生きていなければ、イエスを勉強することができないのです。
種は蒔かなければ麦は生えないのです。種のままで温存していても、絶対に多くの実を結ぶことはできません。そこで、自分を捨ててしまうのです。なぜ捨ててしまうかというと、皆様が肉体的に生きていることが、無意味なのです。ただ肉の生活を送っているだけです。肉は益なしと、イエスは簡単に言っているのです。
イエスは肉体的に生きているように見えました。しかし、洗礼を受けた後のイエスは、幻として生きていたのです。幻として生きているという実感があれば、肉体として生きているという外形があっても構いません。
霊の思いは命であり、平安であるとあります(ローマ人への手紙8・6)。霊の思いで皆様が生きていることになりさえすれば、肉体的に生きている命は、あってもなくてもどちらでもいいのです。仮に肉体が病気になっても、それに対して責任を持たなくてもいいのです。
肉体に背く、無茶なことはできませんが、病気があってもなくても同じことです。霊に従って生きるということは、生きている原質が全然違うのです。
皆様は、肉体的に生きている自分が、霊体としてのイエスの中に入っていくのが、非常に難しいとお考えになります。ところが、難しいとお考えになる理由が、あやふやなのです。
皆様は生きていても何にもなりません。どんなに成功しても、しようがない。ただ死ぬだけです。外形的(肉体的に生きている人間は、ただ死ぬだけです。絶対に救われません。
イエスは、水と霊からとによって、新しく生まれて、神の国に入れと言っています(ヨハネによる福音書3・3~8)。水から新しく生まれると、肉体が消えてしまいます。霊から新しく生まれますと、今までの世界観、価値観が、全部消えてしまいます。新しい人間になって、神の国に入るのです。
花が咲いているのは、神の国です。花が咲いている世界の中へ入っていくのです。入れるのです。入れるから入っていかなければいけないのです。
入れないと思っている原因の一つは、自分が生きていることが、何か大変な意味があると思えるからです。これが間違っているのです。
神は肉体人間が生きていることを、虫けらのように見ているのです。神と同じ見方をするのです。従って、肉体的に生きている自分は、何の価値もない、益なしです。これをはっきりお考えになると、自分を誤解されようが、裏切られようが平気です。
現世に関係がない人間になってしまうのです。これが消極的な面です。積極的な面を言いますと、イエスが主であるという実体を、受け取るのです。
皆様に与えられている五官の働きは、先天性です。先天性が肉体性として生きているのであって、肉体が生きているのではない。
肉体という条件は絶対ではありません。自分自身のハート(heart)によって、自分の肉体をどのように用いるかによって、自分の善悪利害得失の考えが、全部変わってしまうのです。
イエスが水から上がった時に、イエスの肉体が消えていた。霊体だけが見えたので、神はアイ・アム・ウエル・プリーズ(I am well please)と言ったのです。神がウエル・プリーズというように、皆様も肉体を扱って頂きたいのです。
空なるものとして自分の肉体を扱うために、般若心経は非常に参考になります。自分の肉体的存在を、重大に考えないことです。生きていた所で、死んでしまうだけです。死ぬ以外に、目的はありません。
人間が肉体的に生きている目的は、欲望を果たすためであって、これ以外に目的はありません。錯覚の牢獄に入っているのです。これから出てしまうのです。自分の五官の働き、魂の状態が、イエスだということに気がつけばいいのです。
皆様の霊魂は、そのままイエスです。皆様は霊魂の人間になればいいのです。肉体人間をやめて、魂の人間になればいいのです。それだけのことです。これは誰でもできるのです。
難しいことではありません。断固としてする気があればできるのです。これ以外に、永遠の生命の実体を捉える方法はないのです。




 

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