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三位一体の神


日本人は、人間の構成原理を全く知らないのです。人間の本質、本性、について、基礎的な認識が、全くないのです。
われわれにかたどって人を造ったと旧約聖書の創世記にありますが、われわれというのは、三位一体の神を意味するのです。神にかたどりて、神のかたちのように人を造った。これが分からないから、人間は現世に生活しているのを、自分の命だと思っているのです。
日本人は生活はしているけれど、生命を知らないのです。生命という言葉は、生命するというように、動詞的に変化する可能性があるのです。
命とは、現世に生きていることをいうのです。生とは、本来のいのちの本質をさすのです。いのちの本質が、現世に生きている状態を、生命というのです。これは、名詞でもあるが、動詞に変化する場合もあるのです。
例えば、料理というのが、料理するという言葉に変化するようなものです。生命という言葉が、生命するという言葉に変化するのです。
人の命というのは、鼻からふきこまれた神の息なのです。人が生きていることは、その人が息をしているのではないのです。神が人に、息を与えている(創世記二・七)。鼻から息を出し入れしていることは、神的事実なのです。個人の息とは違うのです。
鼻から命の息をふき入れたというのは、神自身の生き生きした勢いを、そのまま吹き込んだのです。つまり、神の実物を、そのまま吹き込んだのです。
息とは、神の命の実体を現しているのです。これを、ザ・リビング(the living)といいます。イエスは、ザ・リビングの中に、自分がいるという感覚をもっていたのです。神が生きているのと、イエスが生きているのとは、同じ命だったのです。
人の息は、神の息なのです。これが人に宿っている以上、生ける神の子としての人格があるのです。鼻から息を出し入れしている以上、人間はすべて、生ける神の子なのです。これを自覚して頂きたいのです。
鼻から息を出し入れしているのは、ただの生理現象とは違います。自然科学は、半面だけを見ているのです。今の医学は、生理機能がどうしてあるのか、なぜ生理機能が生理機能であるのかが説明できないのです。ですから、医学は、非常に不完全な学間なのです。
今までは、不完全な学問でも、通用しました。通用するどころか、大いにお金が儲かったのです。しかし、もうすぐ学問が通用しなくなる時がくるのです。神の国が実現します。キリストが再臨します。キリストの再臨が実現しますと、現在の歴史は、消えてしまうのです。新しい歴史が展開するからです。
現在の文明は、亡者の祭典です。こういう間違った文明は、根本から一新されるのです。キリストの命、神の栄光が、具体的にこの地球上に現れる時代が、目の前にきているのです。
こういうことを、日本人は全く知らないのです。日本人は愚かな民族です。アメリカ人も、ヨーロッパ人も同じですが、全世界の人間が盲になっているのです。
私達は、人格ということを、考えなければならないのです。人格とは一体何でしょうか。人格を持っている者が、死んでしまう命を自分の命だと思ってはならないのです。
なぜかといいますと、人間の人格は、ペルソナからきているからです。ペルソナというのは、宇宙の理性の本源であって、これは位格なのです。位の格式です。絶対唯一のもので、これが、三位一体なのです。原理、原則、原動力という三位一体が、ペルソナの実体です。これを人は与えられているのです。人間には自由意志が、人格の基礎的な意識として与えられています。自由意志がある人は、永遠の生命をつかまえることができるのです。
自由意志とは何かといいますと、神自身が持っている意志です。神自身のペルソナの意志です。ペルソナの意志が、人間のパーソナリティーの意志として、植えられているのです。もし人が、自由意志の目的に従って、自由意志を用いるように決意しさえすれば、見事に、神の命、神の人格性を、自分のものにすることができるのです。
人格は、自分で造ったものではないのです。親からもらったものでもありません。第一、親が人間を造ることは出来ないのです。従って、人間は親の意志で生まれたのでもないし、自分の意志で生まれたのでもない。誰の意志なのか。神にかたどりて、神の形のように人を造ったとあるのです。神が造ったから、神と同じようなパーソナリティーがあるのです。これは、神のペルソナが現れたものなのです。
すばらしい、かぐわしい、おもしろい、楽しいということが、実は、永遠の命なのです。言葉をかえて言いますと、キリストの福音というのです。すべてよきおとずれをつげるものの足は、うるわしいと書いてあります(ローマ人への手紙十・十五)。うるわしいというのをかえて、おいしい、おもしろい、楽しいと書いてもいいのです。楽しいといっても、うるわしいといっても、おいしいといっても、同じことなのです。これは、神の実体を讃美しているのです。
魂は、神の実体を讃美するために、生きているのです。人間はおいしいことが好きです。楽しいことが好きです。うれしいことを経験するために、この世に生きているのです。うれしいことの実体が何であるかを発見すれば、神の本物が分かるのです。これを、キリストというのです。これが、とこしえの命、死なない命なのです。
人格は、死なない命を発見するためにあるのです。自由意志は、そのために用いるべきなのです。商売をするために、用いてもいいでしょう。それは、行き掛けの駄賃のつもりで、用いればいいのです。終極的に、神の方向へ向くような用いかたをすれば、自由意志の本質が、鮮明にされるのです。そうすれば、人格は、人間完成という形で、成就するのです。
自由意志を、現世の結婚とか、職業に用いても、自由意志の正しい用いかたにはならないのです。従って、人格完成は絶対にありません。神にかたどってつくられた人格は、神の方向に進むしかないのです。
人格完成が、唯一最高の人生目的なのです。このために、職業はなければならないのですが、職業のために生きているのではないのです。
 

 

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