top of page

死は人間最大の敵


人間は生きていれば、命を経験しているはずなのです。生きていることは、命を経験していることなのです。
命を経験しているのでしたら、命についての具体的な説明ができるはずなのです。例えば、花を見るとします。花が咲いているということは、地球の命がそのまま花に現われているのです。美しいと感じるのは、命を見ているのです。美しいというのは命の色なのです。命の輪郭なのです。それを美しいと感じます。
私達は、肉や魚を食べます。味は素晴らしいものです。その味とは何であるか。又おいしいと感じるのはなぜか。おいしいと感じる時に、人の脳髄とどういう関係があるかと言うことです。
人間がこの世に生きていることが魂ですが、花を見たり、物を食べたりすることで、魂が神に養われているのです。魂とは、神の言が体をとったものなのです。人の脳皮質の中には、使っていない細胞がたくさんあるのです。命が分かりますと、今まで使っていなかった細胞が働き出すのです。
本当の命は、現世に生れてきた人間が感じられるものとは違うのです。現世に生れてきたのは肉体の命であって、生れたという業に基づく命なのです。これを突破して、命の本質へ帰るのです。
神からでてきたのは、神から離れたことであって、神から離れたということは、死んだということなのです。これが恐ろしいのです。
現在の人間は、死んだと思っていません。生きていると思っています。これはとんでもない倣慢なのです。
人間は全て罪の内に死にたるものです。聖書は、全ての人は罪を犯したので、神の栄光を受けることができないと言っています。これは旧約聖書の創世記にありますが、人間は生まれてくる前に、エデンの園で、神が絶対に食べてはいけないという「善悪を知る木の実」をだべて、死んだとあります。善悪を知る木の実を食べて、自ら善悪を判断することになった。自我意識が芽生えて、神から離れて自分が独立して生きていると考えた。神という命から離れたことが、死んだことを意味しているのです。
人間は全部死人なのです。罪人というのは、死人のことです。罪の内に死んでいるであって、これに気づきますと、命の光を見ることができるのです。命の光というのは、例えば五官によって物を食べることです。食べておいしいと感じます。おいしいと感じることが、魂の真髄である命の本質に関係があるのです。
神は魂の本質を養うために、おいしいという経験をさせているのです。美しいものを見せているのです。これは天の父なる神が、子なる魂を養っている姿なのです。
五官はすばらしい機能であって、これをヨハネは、「初めからあったもの、私達が聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、命の言について」(新約聖書ヨハネ第一の手紙一章一節)と言っています。初めからあるとは、地球ができる前からと言うことです。森羅万象は地球ができる前からあった神の命が、現象として現われているのです。これは素晴らしい神の計画なのです。
これが分からなければ、本当の命は分からないのです。命というのは、魂の本質なのです。魂の本質が、五官の本能性になって現われている。
本能とは、本質的、本来的な命の力を言うのです。本能とか官能とかいうのは、肉体的なものではないのです。もっと深いのです。例えばミカンを食べて、その味をしんみりと味ってみるのです。ミカンの味はそのまま脳髄につながっているのです。
霊魂の働きの本源は、脳髄にあります。特に思考能力の本源は、前頭葉にあります。神を信じるとか、命は何か、イエスの復活は何かと考える働きは、前頭葉にあるのです。
脳は百四十億の細胞があると言われていますが、よほど多く使っている人でも、だいたい五~六%しか使っていないそうです。大半は全然働いていないのです。これは、人間の大脳皮質が死んでいる証拠なのです。内なる面は働いているけれど、霊の面が全然働いていないのです。
霊というのは、聖書独特の言い方で、聖書に馴染みのない人は分かりにくい言葉ですが、簡単に言いますと、霊というのは、物事の本質を意味します。人間が生きていることの本質、地球があることの本質が霊です。
命というのは、霊なのです。人が生きているのは霊であって、味わっている舌の感覚は、霊に属することなのです。その事柄の意味がよくお分かりになれば、新しく霊の目を開くことができます。そうすると初めて、死なない命が分かってくるのです。
ヨハネが言っていますように、目で見て、手で触っていることが、初めからある命の言葉にさわっているのだと言っています。人生は、仏教や儒教で考えているような、うすっぺらいものとは違います。素晴らしく深いものなのです。今の日本人には全然分からないことなのです。
イエスがどのように生活したのか、彼が神をどのように信じていたか、水をぶどう酒にどうしてかえたのか。そういうことが分かるようになりますと、宇宙の大生命の本当の価値が分かってきます。
今の人間は、肉体的に生きていますが、これは、原罪的に生きていること、仏教的に言えば、無明煩悩のうちに生きていることなのです。この生き方は、本当の生き方ではありません。
悔い改める必要があります。悔い改めて福音を信じるというのは、人間の精神状態をやりかえるのです。利害得失、喜怒哀楽という考え方を、もう一度やり直すのです。そうして、本当に命を考える気持ちになってみるのです。
文明を信じたらだめです。文明は、魂を完全に殺してしまうのです。文明を信用していると、ひどいめにあいます。これは何回もお話していますが、ユダヤ人のトリックなのです。
だから、何としても死を破らなければならない。死を破るためには、イエスが復活したという事実を勉強する以外にはありません。彼が、現世において、どんな生き方をしていたかを勉強すればいいのです。
例えば、新約聖書マタイによる福音書の五章から七章に、イエスが現世において生きていた生き方がそのまま現われているのです。目は体の明かりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう(同六・二十二)という所をしっかり勉強していけば、永遠の生命をつかまえることはできるのです。
イエスが生きていた生き方が分かれば、死ななくなるのです。魂は本来死ぬべきものではないのです。不滅なのです。なぜ不滅なのかと言いますと、魂は神から出てきたからです。神から出てきたものは、本質的に死ぬはずがないのです。絶対になくならない。死んだらしまいというのは、大きな間違いです。
死んで、そのまま消えてくれたらありがたいのです。功罪共に消えたらいいのです。さんざんに焼きもちをやいて、性欲と食欲の生活を送っていた。そんなものがすっと消えてしまえばありがたいのですが、そうはとんやがおろさないのです。
人間は現世に生きていて、命は自分のものだと思いこんでいるのです。人間は、自分が生れたいと思ったわけではありませんから、命が自分の所有物であるはずがないのです。こんな簡単なことが分からないのです。
命は神から来たのですから、どうしても神に帰らなければならないのです。これが、人間のしなければならない仕事なのです。
業を果たすというのは、神へ帰る準備ができたことなのです。そうすると死ななくなるのです。
霊魂が不滅であれば、別に神に帰らなくてもいいのではないかと言う人がいますが、不滅というのは、消えてしまわないという意味であって、これには二つの意味があるのです。神の恵みと愛の内に、救われる状態で消えないという意味と、とこしえの裁きを徹底的に受けるという意味で、消えないという意味とがあります。
不滅には、救われる不滅と、滅ぼされる不滅と両方あるのです。なぜそうなるかと言いますと、魂は神から出てきたものですから、永遠の性質を持っているのです。
人が五官を用いて、七十年、八十年、この世で生きてきました。その記憶があります。あの時にああいう経験をした、この時にこういう経験をした。その経験の記憶というのは、普通の人間の場合は肉の記憶ばかりです。肉体生活の記憶ばかりです。これが危ないのです。
脳髄は灰になります。骨も肉体も灰になります。しかし記憶は灰にならないのです。七十年、八十年、この世に生きていたという事実です。この事実は神の前に厳然たる事実です。これは消えません。絶対になくなりません。
そこで、目の黒いうちに、どうしてもイエスを勉強しなければならない責任があるのです。やろうと思えば誰でもできるのです。まず今までの常識を一切空と考えて、五蘊皆空と考えて、今までのごちゃごちゃした考えを脱ぎ捨ててしまうのです。
パウロは、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨てよと言っています(新約聖書エペソ人への手紙四・二十二)。寝巻きを脱ぎ捨てるように、着物を着替えるように、古き人を捨てるといっているのです。これはできるのです。そんなに難しいことではありません。
今、生きている間に、自分が生きていること、今まで生きていたということを片ずければいいのです。
実は、人の本当の姿は、イエスと同じなのです。それを自分の命だと思っているから、自分という思いにだまされているのです。実は人の魂は、神のものなのです。イエスは、「私は父から遣わされた」と言いましたが、私達も、父から遣わされたのです。
このことを、イエスは私達に教えようと思って、地上へきたのです。イエスを信じるというのは、イエスと自分は本質的に同じものだということを信じることなのです。
死は、人間の唯一の絶対的な敵なのです。この敵と戦い続けなければならないのです。
もしできれば、幼児に帰ったような気持ちで、「自分は死にたくない」と言ってみるのです。寝床に入ってからでもいいですから、ふとんをかぶってその中で、心の底から私は死にたくないと言うのです。それが素晴らしい祈りになるのです。ああ主よ、主よと言うだけが祈りではありません。本当に自分の真心をはき出すのです。
隠れた所に神がいますから、本当に死にたくないと神に訴えるのです。そうすると、頑な気持ちが解けるのです。
素直に物を考えるのです。ごちゃごちゃと理屈を言わないで、生かされているということをまっすぐに見るのです。これができれば、必ず本当の命を発見できるのです。
 

 

bottom of page