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自分を征伐する


一体、人間は何をしているのか。食って、寝て、子供を産んで、死んでいく。これが人間なのかということです。
人類全体が大きく間違ってしまったことは、世界の歴史という観点からしますと、ルネッサンスが、大きなポイントになっています。ルネッサンスは、現世に生きている人間を、過大に評価する感覚が、基本原理になっています。生活のあり方を、できるだけ豊かにしようと考えた。そのために、人間は、完全にバカになったのです。ルネッサンスは、文明の本質を、破壊してしまったのです。
こういう考え方に、世界中の学者は、大反対するでしょう。実は、ルネッサンスは、ユダヤ人の奥の手であって、ルネッサンスの思想が世界に流された結果、人間本来のあり方が、質的に崩壊してしまったのです。ほとんど崩壊に近い状態になってしまったといってもいいかもしれません。
文明が進歩すればするほど、人間が、だんだん悪質になるのです。程度が悪くなるのです。現代文明が、人間の本質から考えて、どれほど悪いものであるかは、明らかなのです。
政治家も、宗教家も、哲学者も、ルネッサンスの悪さを指摘している人は、一人もいませんが、これはどういうことでしょうか。ルネッサンスが、人間を殺しているのです。これが、ユダヤ主義の文明なのです。霊魂の問題を、だいなしにしてしまったのです。生死の問題を、分らなくしてしまったのです。
生か死かという問題が分らない状態で、文明をいくらつくってみても、何にもならないのです。生死が分らないということは、命が分らないということです。命が分らないということは、まともに生きていないということになるのです。
人間全体に、そういう思想を注入したのが、ルネッサンスなのです。歴史の中で、人間を、堂々と、侮蔑しているのです。それを、今の世界中の学者は、誰も気がついていないのです。
学者は、ノーベル賞をもらって、喜んでいる。こういう人達に、命が分るはずがないのです。学問は、どんなものでも、専門学ですが、これは、ルネッサンスによる思想を基本としているのです。その専門学が間違っているのです。
人間が、この世に生きていることに、何の意味があるのでしょうか。人間は、この世に生きていることを、無批判に、うのみにしているのです。人間が、この世に生きているままの状態で、幸福になるべきだと考えている。これがルネッサンスですが、この考え方が間違っているのです。この思想は嘘です。
一体、人間は、なぜ死ぬのでしょうか。死ぬとは、誰が死ぬのでしょうか。これが分かっていないのです。死ぬのは、自分なのです。自分を征伐してしまえば、死ななくなるのです。
他人が死ぬのは、一向に、痛くもかゆくもないのです。蜀山人の作った狂歌ですが、「死ぬことは、人のことだと思うたに、おれが死ぬとは、これはたまらん」というのがあります。死ぬというのは、自分という人格です。もっとはっきり言えば、自分という人格は、すでに死んでいるのです。
自分というのは、ありもしない人格を、あると勝手に思っていることなのです。旧約聖書のモーセの掟の第一戒は、神の他に何ものをも神としてはいけないといっていますが、これがユダヤ人に、全然分っていないのです。
ユダヤ人は、自分が生きていると、思いこんでいるのです。これが、神とユダヤ教が、激突している根本原因です。神は、自ら、私はイスラエルの神であるといっている。イスラエルと神が、思想的に正面衝突している原因は、自分があるかないかということなのです。
人生の中で、一番大きな問題は、自分というものです。これさえ分れば、生死の問題は、簡単にかたがつくのです。
自分は、存在していないのです。自分が生れたいと思って生れてきた人はいないのです。だから、自分というのは、いるはずがない。これは、何回聞いても分らないことです。ヒットラーは、一つのことを自分以外の人間に、本当に理解させるためには、それを千回話さなければならないといっているのです。ヒットラーは、極悪非道のことをした全く許しがたい人間ですが、これだけは間違っていないといえるのです。
自分がいるというのは、嘘です。この嘘は、人の精根にしみこんでいるのです。脊髄神経の中に巣くっている。脳髄から、延髄、脊髄に、自分がいるという思いが巣をつくっているのです。これを退治するのです。
自分という人間は、生れたいと思ったことがない。自分があることが、とんでもない不幸の原因になっているのです。この自分を、なぜ、そんなにかわいがるのかということです。自己弁護、自己弁解、自分をかわいがるのが、偶像崇拝になるのです。これが分りますと、生の問題、死の問題が解決するのです。
自分が生きていると考えている人は、必ず死にます。毎日毎日、自分を否定するのです。そうすると、死なない人間になるのです。自分ではないものが、見えてくるのです。
目で物を見ます。これは、一体、自分の力でしょうか。心臓を動かしているのは、自分の力でしょうか。自分が、確かにいるという証拠はないのです。自分を、完全に説明できないのです。人間は、説明ができないことを、勝手に信じているのです。こういう間違いを、五蘊というのです。
照見五蘊皆空というのは、自分の気持ちからぬけ出してしまうことです。これを実行しますと、死ぬということが、妄念だということが、分るのです。
逆に言いますと、人間は、現在、すでに死んでしまっているのです。自分が生きていると思っていることが、すでに死んでしまっていることになるのです。息をひきとることによって、脳波の活動が停止することによって、死が、決定的に実現するだけのことです。
般若心経は、それを言いたいのです。般若ハラミタという言葉を、まじめに考えるなら、今生きていることが、実は、死んでいることになるのです。
そこで、私達は、現在、死んでいるから、命とは何か、どこにあるかという勉強を、する必要があるのです。もう、死ぬ心配をする必要はないのです。ただ、脳波が止ってしまいますと、死ぬことが決定的な事実になります。
現在、人間は、死んでいる状態なのです。死んでいる状態ですけれども、死んでしまっているのではないのです。だから、今なら、命がどこにあるかを、勉強できる可能性があるのです。これを、目の黒いうちにするのです。
とにかく、心臓が動いているうちに、命を発見しなければならない責任があるのです。これをまじめに考えれば、死という問題は、完全に解決します。
孔子は、生とか死は、知らないといっています。孔子は、生活のしかただけを説明しているのです。
人間は、皆、すでに死んでいるのです。自分が生きていると思っているからです。自分が生きているという、バカなことを考えるのは、死んでいる証拠なのです。
自分とは何かを説明できないのに、自分が生きていると、無条件に信じている。無条件に信じていることは、精神状態が盲になっているからです。精神状態が盲になっていることは、魂的には死んでいることになります。ですから、これから、死ぬという心配をする必要はないのです。すでに死んでしまっているから、これからもう死ぬことはないのです。
まず、死ぬ心配から解放されることです。そして、生きる方の心配をすることです。命はどこにあるか、どうしたら命の本物をつかまえられるかを考えればいいのです。
命を求めようとしている人は、すでに、死の解決に、一歩を踏み出している人なのです。死を本当に解決したいと思うのなら、本当の命がどこにあるかを考えればいいのです。
死ぬとはどういうことか。肉体的に死ぬということは、他界するだけなのです。他界というのは、現在の世界から去って、別の世界に移るということで、存在の形が、変るだけなのです。今、私達.の心臓が動いている間に、この世を去ってからどうなるのか、未来とはどういうものかを、つかまえておけばいいのです。
今、私達の心臓が動いていますが、これは何であるのか、医学では分らないのです。医学は、心臓が動いている状態の診断はします。しかし、なぜ動いているかという説明は、一切できません。ここに、専門学の浅薄さがあるのです。
自分が生きているという感覚は、すでに、死んでいる思想ですが、この思想に、人間は長い間、苦しめられてきたのです。人間にとって、自分という思想は、目をふさいだ目隠しなのです。見えない、分らない、難しいというのは、目隠しのためなのです。この目隠しを取ってしまえば、すぐに見えるのです。命が分るのです。これをするのです。
イエスは、どのようにしたのか。彼は、自分に生きていなかったのです。彼は、自分というものを、どのように征伐したのか。端的に言いますと、イエス以外に、これができた人は、一人もいないのです。孔子も失敗しています。老子もだめです。法然も、親鸞も、日蓮も、道元も、皆失敗しているのです。皆、死んでいるのです。
自分というものを、徹底的に解剖できた人は、日本には一人もいません。それほど、命をつかまえることは狭い門なのです。狭いけれど、命をつかまえる方法は、イエスという門を突破する以外にはないのです。
イエスは、死を破ったのです。歴史的事実において、死を破ったのです。彼だけが、狭い門を通りこしてしまったのです。この事実をまじめに勉強する気持ちになれば、死を破る第一歩を、踏み出したことになるのです。
 

 

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