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生老病死

 

現世に生きている人間は、例外なく、生老病死にとらわれています。生とは、今生きている状態、又は条件です。老とは、現世で年をとるという感覚です。このように、現世に生きている自分を基準にして物を考えることが、人間の業になっているのです。人間は、この業に押さえこまれているのです。
魂とは、五官が働いている状態をいうのです。従って、肉体的なものです。肉体的に、五官が働いているのです。働いているのは何かと言いますと、命の本質が働いているのです。
人が生まれる前に、命が働いていた。それが、魂として働いているのです。生命が魂となっているのです。これが、五官の働きなのです。
人間は、この世に生きるために生まれてきたのではありません。何のために生まれてきたかと言いますと、生まれる前の命を悟るために、生まれてきたのです。
命の本質をつかまえることが、人生全体の目的なのです。生活することが、目的ではありません。命をみきわめることが目的なのです。だから、難しいとか何とか、言っておれないのです。
生活していても、やがて、死ぬにきまっているのです。現世で成功しても、どんな財産や地位を築いてみても、人間は死ぬにきまっているのです。生老病死という業に、押さえこまれているのですから、現世で生きていても、しかたがないのです。
そこで、死ぬにきまっている人生に、みきりをつけて、般若ハラミタの気持ちになるのです。
日本人は、率直に言いますと、運のよくない民族です。日本だけではなく、ドイツでも、イギリスでもそうですけれど、ユダヤ人以外の人間は、皆、地球が何のために造られたかを、知っている人間が、先祖にいなかったのです。
本当の命、観自在といえるような命をわきまえている立派な祖先が、日本にはいなかったのです。だから、日本的な物の考えは、すべて、現世に属する考えです。従って、日本的な考え方から、解脱するような勇気が、まず必要なのです。
魂は、その人のものではありません。天のものなのです。天命という言葉がありますように、天に命があって、この命が、今私達の生として現れているのです。だから、魂が自分自身の所有物のように思えて、どのように生きようと勝手だという、わがままな考えでいると、死んでから必ず霊魂の裁きを受けることになるのです。
なぜなら、自分の命ではないものを、自分のものとして、勝手に使っていたのですから、それに相当する税金をとられるのは、当然なことです。
人間の衣食住をみますと、洋服の着方、食事の仕方、家の住み方は、神がもし肉体を持ったら、人間と同じような生き方をするにきまっているのです。人間は天の神と同じように、優遇されているのです。それほど、尊い命を、人間は経験しているのです。
それは、何のためか。生まれる前の命を見つけるためです。
例えば、マグロの刺身の味は何か。これは、生まれる前の、命の味なのです。桜の花が、爛漫と咲いています。芭蕉の句に、「これはこれはとばかり花の吉野山」というのがあります。「名月やああ名月や名月や」という句もあります。
一体これは何なのか。花が咲いている姿は、人が生まれる前の、命の姿なのです。それが、今、現れているのです。地球ができる前の命が、花というかっこうで、現れているのです。
花を見てきれいだと思えるのは、五官の本質が、永遠の生命、とこしえの命を、看破する力があるということです。
魂は、観自在菩薩になるだけの力が、充分あるのです。それを、日本人は、現世に生きることだけに、一生懸命になっている。生老病死という人間の業に、つかまえられているのです。そして、自由に物が考えられなくなっているのです。自分の常識、知識、現世に生きている自分の経験しか、考えられなくなっている。三島由紀夫のように、死んでから、まだ原稿を書いていると思っているのです。
人間は、そのように、現世に執着を持っているのです。現世に、執着を持ちすぎているのです。
働かなければ、ご飯が食べられないといいます。魂のあり方が、天地自然の法則に一致しておれば、勝手に、ご飯が食べられるにきまっているのです。
道心に衣食ありという言葉があります。伝教大師の言葉ですが、道をきわめる心さえあれば、勝手に飯が食えるというのです。これは、無理なことではないのです。
例えば、鳥が生きている状態、魚が生きている状態が、本当の命のあり方であって、人間は、現世に働くために生まれてきたのではありません。命の本質を、みきわめるために、生まれてきたのです。
人間は、観自在をするために、生まれてきたのです。私達は、会社員になったり、商売人になったりしていますが、働くという気持ちがあれば、勝手に生活ができるのです。働く気持ちがないものでも、生活保護という形で、生きています。働く気持ちがないものでも、生きていけるのですから、働く気持ちがあれば、必ず生きていけるのです。
まず、私達が考えなければならないことは、命です。現世に生まれてきて、成功した失敗したということは、どうでもいいのです。命をつかまえたかどうかが、問題なのです。
これは難しいことではないのです。刺身の味が分かる人は、生まれる前の命が分かるにきまっているのです。
人間は、天の命、神の命を預かっているのです。命の本質は、神です。命を、人格的に表現すると、神になるのです。神を、機能的に表現すると、命になるのです。命と神は、同じものなのです。
人間は、宇宙でたった一つの命を、預けられています。命は神からの預かりものなのです。これを、自分のもののように考えることは、背任横領罪になるのです。
他人のものを、自分のもののように考える。人間は、命を自由に使うことができますが、自由に使う権利が与えられているだけに、それに対する責任を、当然持たなければならないのです。
基本的人権には、基本的な責任が、当然ついて回るのです。この責任を果たすことが、観自在という境地に入ることなのです。本当の命を知ることです。
イエスが、死を破ったという歴史的事実があるのです。イエスが死を破ったのなら、私達も、破れるにきまっています。
今年は、2008年です。世界中の、ほとんどの国が、西暦を採用しています。西暦とは、イエスが誕生してからのことです。イエスが、世界歴史の中心になっているのです。歴史的事実において、魂を復活させることができるのです。
生老病死という感覚にこだわっていることは、五蘊にとり殺されていることなのです。これを踏みつけたらいいのです。生老病死を踏みつけることは、誰でもできるのです。これが、人間がこの世に生まれてきた目的なのです。
 

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