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事情境遇


旧約聖書で神がアブラハムに、『私は全能の神である。あなたは私の前に歩み、全き者であれ』と言っています(創世記17・1)。これがなかなか分からないのです。
皆様に現在与えられている事情境遇が神の前です。皆様に与えられている家庭の事情、生活の事情、健康の事情が、神が皆様に向かい合っている姿です。皆様が神に対面している姿です。これをどのように生きこなすかが問題です。
例えば腹を立てなければならないことが起こってくる。その時に腹を立てれば落第です。こういう事情境遇が人間から見て、なかなか神の顔だとは思えないのです。神の顔だと思ったら誰でも腹を立てないでしょう。仕事が行き詰まるとか、病気になるとか、いろいろな不幸と思える事情を神が共にいると理解して、神を生活することはなかなかできないのです。しかし、これが神の顔なのです。
皆様が肉体的に生きているから事情境遇が起きるのです。もし肉体的に生きていなかったら、事情境遇は起きないでしょう。肉体的に生きていることによって発生する事情境遇は自分の思うようにならないことが多いので、悪魔的なものに思えるのです。ところが、悪魔的に事情境遇と思えることが実は神の顔なのです。神が不幸と思える事情境遇を起こしてくるのです。悪魔を目の前に持ってくるのです。
この事情境遇に勝つと神が誉めてくれるのです。日本人が聖書の勉強をとことんしようと思いますと、事情境遇が邪魔に思えるのです。日本人であるということが邪魔をするのです。これを乗り越えることができるかどうかが、悪魔に勝てるかどうかなのです。
自分の思いに自分が勝つのです。ローマ人への手紙に『なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、命と平安とである』(8・6)とあります。自分の思いが肉に従っている間は死ぬのです。皆様は肉体的に生きておいでになりますけれど、これは罪人の状態です。死ぬに決まっているのです。死ぬに決まっている状態をそのまま飲み込んでしまいますと、その精神状態はその人を死に追いやってしまうのです。
皆様は肉体があるという常識を持ってしまっている。生まれてからその考えを持たされてしまっているのです。建物を見れば建物があると思えるのです。これが肉の思いです。精神構造が物質が存在していることをそのまま信じているのです。
物質が存在しているということは間違ってはいないのですけれど、これは現在の神の物理構造であって、『私の前』というのは、不完全な神の前という意味なのです。例えば、南極には氷が張り詰めていますけれど、これは地球が不完全であることを証明しているのです。
ところが、地球に生きている人間は、自分自身の命が完全であると考えている。これが間違っているのです。肉体は死ぬに決まっていることが分かっていながら、肉体的に生きているのが自分だと思っている。このような精神構造を否定するのです。これを神を信じるというのです。
肉体的な自分があっても信じないのです。肉体的な自分があることがわが前です。神の前に私たちは肉体を与えられているけれど、私の前に歩み全き者であれということを実行しようと思えば、肉体的に生きている自分を脱ぎ捨てなければならない。これがアブラハムの信仰です。
アブラハムが神を信じ、その信仰を義とせられた。アブラハムが神を信じたことによって、アブラハムが消えてしまったのです。そして義とされたのです。
イエスは、『まず神の国と神の義を求めなさい』と言っています(マタイによる福音書6・33)。原文にはあなたがたという言葉があるのです。聖書を勉強している者は、世間並に生きている人間の精神構造を持つことをやめなさいと言っているのです。
皆様が現在生きているのは、神の命です。神から与えられた命です。神から与えられた命を持っていながら、自分の気持ちで使っている。神の命を横取りしているのです。そこで死んでから地獄へ行かなければならないのです。
命は皆様の所有物ではありません。だから、神の御心に従って命を使わなければいけないのです。自分にある命だから、自分の思ったままに使ったらいいと勝手に思っている。これが大変な間違いです。
人間の命は精神構造です。命は吟です。口とは人のことです。令は天の掟です。命は自分のものではないというのが令です。人間は自分が生まれたくて生まれたのではない。地球は神が造ったのです。森羅万象は神が造ったのです。それらの恩恵に従わなければ生きていけない。これが令です。天の命令です。人間は天の命令に従って生きている。これが命です。命の実質は人間の自由勝手になるものではありません。神を信じなければ地獄へ行くしかないのです。
現世に生まれて、生きていることを真面目に考えることができる人は、めったにいません。できることではないのです。現世に生まれてきたことがすでに自分自身のことではないのです。ところが、人間は自分が生まれてきたと考えている。この考えが始めから間違っているのです。
私の言うことはすべての人間に理解できないことでしょう。だからすべての人に反対されるかもしれません。神を信じられる人は一人もいないかもしれないのです。
パウロは次のように言っています。『義人はいない。一人もいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない。一人もいない。彼らの喉は、開いた墓であり、彼らはその舌で人を欺き、彼らの唇には、まむしの毒があり、彼らの口は呪いと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない』(ローマ人への手紙3・10~18)。パウロの時代でもこれほど悪い状態であった。現代人はその何十倍、何百倍も悪くなっているので、神を信じる人はとうていありえないでしょう。
この世に生まれてきた人間は、すべて死ぬために生まれてきたのです。だから死ぬために生まれてきた人間の精神状態を根底から変えてしまわなければならないのです。すべての人が死んでしまう状態から抜け出して死なない状態に切り替えるために、天の命令に従って生きる人間になるためには、自分を捨ててしまうしか方法がないのです。
生きている間に命の本質を弁えて、命に対する考え違いを改めるなら、永遠に通用する本当の命が見えてくるでしょう。これをよく考えて頂きたいのです。


 

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