top of page

譬(たとえ)


新約聖書マタイにはる福音書13章35節で、「わたしは口を開いて誓を語り、世の初
めから隠されていることを語り出そう」と神が言っているのです。これは、詩編の言葉をマタイが引解しているのですが、この譬(たとえ)ということが、難しいのです。
譬とはどういうことなのか。これを仏典的に言いますと、曼荼羅(マンダラ)になります。真言宗の場合、弘法大師が曼荼羅をしきりに言うのですが、曼荼羅の本体が何であるかが説明できないのです。
天地万物が曼荼羅であるとします。天地万物の本体は何なのか。本体を現すために、曼荼羅があるのです。その本体は何かと質問しても、弘法大師は答えてくれません。曼荼羅のことを、色々と説明するのです。しかし、大乗仏教は、その本体を説明できないのです。
なぜかといいますと、大乗仏教には、神がないからです。造り主がないのです。仏教哲学は無始無終といいます。初めも、終りもないと言うのです。地球は、初めがなくて、終りもないといいます。
しかし、それは嘘です。そんなことは、科学でも説明ができるのです。地球には、初めがあったのです。だから、終りもあるのです。
仏教は、神という概念がないために、地球の初めの説明ができないのです。人間の初めの説明ができないのです。肉体的に人間が生きています。肉体的に人間が生きていることが、譬なのです。
みずからというのは、おのずからの譬なのです。人間がこの世に生きていることが、曼荼羅なのです。天地万物が曼荼羅であるように、人間も、その中に入るのです。弘法大師自身が、自分がどこからきたのか分らない。分らないから、曼荼羅の原理、原質が、何であるか分らないのです。
人間の学問、宗教は、皆そうなのです。例えば、科学という概念があります。科学は、時間が存在することを、仮定しているのです。時間が存在することを仮定しなければ、物理運動が説明できないのです。例えば、プロトンの回りを、エレクトロンが、一秒間に、一億四千五百万回まわると言います。もし、一秒という時間がなかったらどうなるか。理論物理の説明がつかなくなるのです。
そこで、科学は、時間や空間が存在することを前提にしているのです。これが、専門学の誤りなのです。専門学は、曼荼羅を鵜呑みにしているのです。
時間があることを、科学で説明することはできません。時間、空間の本質は、人間の頭では説明ができないのです。これを、譬というのです。時間や空間は、あるらしいことは分るけれど、譬であって、時間の本質は、どこに、どうしてあるのか。どこからくるのか。時の流れとは何なのか。どこへ行くのか。この説明は、科学ではできません。哲学でもできないのです。
西欧人の世界観は、時間や空間の説明ができない世界観です。
般若心経の世界観は、時間、空間の説明ができます。どのようにできるかといいますと、色即是空、空即是色です。色は空であることは分ります。しかし、空が色であることが、どうも分らない。もし、色が本当に空であるなら、なぜ空が色になって現われているのか。なぜ地球が存在するのかということです。この質問は、仏教では答えられません。仏教では、そういう質問は、してはならないことになっているのです。
そこで、私達は、好むと好まざるとにかかわらず、旧約聖書の創世記を勉強しなければ、地球が存在する原因が説明できないのです。
ところが、日本人は、聖書を敬遠しているのです。嫌っているのです。キリスト教は、西洋の宗教であって、聖書の勉強はしていますが、キリスト教的に勉強しているだけなのです。キリスト教的に聖書の勉強をしますと、全部、西洋の宗教になってしまいます。本当の神が分らないままの状態で、西欧社会はできているのです。だから、キリストを信じる、神を信じると言うけれども、それは、概念なのです。
アメリカや、ヨーロッパには、神の本物がないのです。キリストの本物がないのです。これが、西欧社会なのです。そこで、専門学を造って、ごまかしているのです。
人間の命をごまかして、生活の方へひっぱっていくのです。生命の方向へひっぱっていかないで、生活の方へ、人間をひっぱっていくのです。これが、教育の荒廃です。
何のために、教育があるのか。何のために、人間が存在するのか。これがはっきり分らない状態で、学校数育というテクニックだけを考える。だから、間違ってしまうのです。命の本質が分っていないことが、現代文明の、最大の欠陥です。
現在の文明は、欠陥文明です。ユダヤ主義に基づく、欠陥文明であって、神という言葉はあるが、実体はないのです。
空がなぜ色になったのか。空は色にならざるをえないのです。無という言葉が、般若心経にあります。無という思想は、物を生み出す力なのです。有とは、物を滅す力なのです。物理的に物を考えるというのは、有の方になるのです。西欧社会の考え方は、有なのです。
日本社会の考え方は、無の方になるのです。無の問題、有の問題を考えていけば、なぜ地球が発生したのかという原因が、分ってきます。日本が始まってから今まで、地球がなぜできたかを、明確に説明した人は、一人もいません。
専門学には、非常な欠陥があります。その欠陥をカバーするためには、色即是空、空即是色の原理の説明ができなければならないのです。なぜ空が色になったのか。なぜ色である地球が存在しているのか。人間は、なぜ地球に生きているのかという根本問題ですが、これを、勉強しなければならないのです。
命の本質さえ分れば、死ぬことがなくなるのです。現に、人間の目は、花の美しさを見ているのです。花の美しさを見ているということは、おのずからの命の本質が、分るということです。目の力は、おのずからの命を、見ているのです。
これを、自分の気持ちにわりこまして、人生観の中へわりこましていくことになりますと、生れる前の命を、はっきりつかまえることができるのです。
生れる前の命は、生れていないのですから、死ぬはずがないのです。赤ちゃんが生れた時に持っている命は、物心がつく前の命なのです。物心がつく前の命が分れば、死なない命をつかまえることかできます。教育の荒廃も解決されるのです。
教育とは何かということです。何のために人間が生きているのか。人間とは一体何であるのか。これが分れば、現在の日本は、がらっと変るでしょう。全世界の文明が、ひっくりかえってしまうのです。
その時、イエス・キリストの復活という問題が、歴史的事実になって、現われてきます。現在の地球の万物は、譬です。本当に存在しているのではありません。ある一定期間、地球があるような状態にあるだけなのです。人間の肉体と同じことです。
肉体は、いつも新陳代謝している。喉が渇いたり、おなかがすいたりします。肉体そのものが、生態なのです。肉体は生きているのです。生きていることは、流動的に存在しているということです。
地球は造られたものです。造られたものは、やがて、なくなってしまうものなのです。こういう聖書の原点をおさえていきますと、生命の根本原理、地球が存在することの根本原理をつかまえることができるのです。
 

bottom of page