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般若心経が言いたいこと


皆様は現在生きておいでになりますが、何のために生きておいでになるか、分からないのです。文明ができて、人間の歴史が始まってから、だいたい六千年になりますが、人間が何のために生きているのか、未だに分からないのです。
皆様は何のために生きているのか、分からないままの状態で、死んでいかなければならないのです。現代人は神経がおかしくなっているとさえ言えるようです。そういうことが、当たり前と思っている人が、ずいぶん多いのです。
何のために生きているのか、自分の人生経験がどういうことであったのか、それが分からないままの状態で死んでいくことになるのが、当然だという考え方、これは実に無責任、無感覚、無自覚、無定見のひどい考え方です。
こういう考え方にしてしまったのは、現代文明に原因があるのです。これがルネッサンス以降の文明です。ルネッサンスはユダヤ人のトリックですが、ユダヤ人がこういうやり方で、白人社会を騙した。白人はユダヤ人の言う通りに動いているのです。その白人の考えの通りに日本人は、動いていかなければならないことになっている。こういうことを冷静に考えて頂きたいのです。
文明は人間のためにあるはずです。人間が文明に隷属するものではありません。ところが現代では、人間が文明に奉仕させられている。思想的にも、学問的にも、政治的、経済的にも、皆様は現代文明に引きずり回されているのです。
文明の他に信じるものがないから、しかたがないと言われるかもしれませんが、般若心経を冷静にお読みになれば、今の文明が間違いだらけであること、間違いの塊であることが分かるのです。これは般若心経を読むだけで分かるのです。
日本には、般若心経という非常に貴重な文化財があります。白人文明の中には、般若心経というような、高等に、高尚的確に、人間の真髄をずばりと言い切っている文化財は、一つもありません。
白人は肉体人間を認めることが、本性のようなものです。日本人は農耕民族であるために、人間存在を認めることよりも、お天道様を認める感覚が強いのです。これは日本人の特徴です。
その日本に、般若心経というすばらしい文化財が現存していることは、誠に心強いことです。しかし、そのせっかくの般若心経でも、仏教の経典になってしまうと、三文の価値もないことになるのです。宗教はこれほど悪いものなのです。
般若心経は仏教の経典ではありません。人間存在の輝かしい文化財の筆頭に上げられるべきものです。ぺらぺら読んだり、書いたりして、すましておられるような仏教のお経ではないのです。
それを仏教では、経典のように扱ってしまっている。般若心経の経とは、スートラということで、縦につながっているということです。上から下りてきたという意味にもなるのです。つまり般若心経は、天来の哲学の原則のようなものです。命に関する天来の原則が、般若心経なのです。
五蘊皆空というのは、人間の思いが、本質的には幻覚にすぎないというのです。こういう明解な言い方は、白人社会にはないのです。白人思想は、非常に浅薄なものです。人間の思いそのものが五蘊であるという思いきった言い方は、東洋人でなければできないのです。
現在、般若心経の字句を尊重する習慣を持っている民族は、日本人しかいないのです。だから、せっかくの般若心経を、宗教的に曲げてしまうことをしないで、宗教家の手から般若心経を奪い返して、皆様の貴重な命の資料にすべきであると思います。
釈尊は宗教家ではなかったのです。従って、釈尊の思想が、最も端的に二百七十六文字において明確に現われている般若心経は、宗教の経典ではありません。皆様の人生の礎となるべき、重要な文化財です。
現在の仏教界で、般若心経の説明をするお坊さんはたくさんいますが、般若心経の字句を実行している人はいません。自分自身の命の実体として捉えている人はいないのです。
宗教はインチキです。日本の憲法には信教の自由という言葉がありまして、信じても信じなくてもいいと言っているのです。従って、般若心経が宗教の経典であれば、色即是空という言葉でも、五蘊皆空でも、信じても信じなくてもいいとなるのです。
色即是空は本当のことです。人間は目で見たものが、目で見たとおりにあると思っている。これが迷いです。幻覚です。
人間の目は、有形的に存在するものを見るためにあるのではない。有形的に存在するものの本質を見るためにあるのです。
皆様は現在生きていらっしゃいます。ところが、皆様が今日まで生きていらっしゃったその命を続けても、ただ死ぬだけです。死ぬに決まっているのです。
ところが、死にたくないというお気持ちが、皆様にあるに決まっています。死んだらどうなるかを、皆様の霊魂は、正確に知っているのです。このままで死んだら、大変なことになるということを、霊魂は知っているのです。だから、死にたくないという非常に強い気持ちが、皆様の中にあるのです。
ちょっと病気になると、すぐ病院に行かれます。そのように、人間の霊魂は、命の尊さをよく知っているのです。ところが、皆様の常識が、それを忘れているのです。
皆様は、常識では死ななければならないと思っているでしょう。しかし、直感的には死にたくないのです。死にたくないという霊魂の願いが、いわゆる本能であり、本心であって、人間の本心は死んではだめだということを、よく知っているのです。
皆様は、今まで、命ことを考えなさすぎたのです。ただ生活のことだけを考えていたのです。いくら人間が生活してみても、死んでしまうに決まっているのが人生です。
般若心経は、そういう考え方が間違っていると言っているのです。五蘊皆空、人間の考えは、本質的には幻覚であると言っています。人間がいると思っていますが、本当にいるのではないのです。人間はないものをあるように幻覚しているのです。
般若心経はそれを、はっきり書いていますけれど、これを宗教のお経として読んでいますと、信じてもいい、信じなくてもいいとなるのです。だから、せっかく般若心経が日本にありながら、ご利益が全然分かっていないのです。
般若心経を宗教として扱っていることが、間違っているのです。釈尊は宗教家ではなかったのです。ですから、般若心経は宗教ではありません。
日本には、釈尊の本当の悟りが、全然伝わっていません。日本の仏教は、日蓮の宗教、親鸞の宗教、弘法大師の宗教というように、各宗派のお祖師さんの信仰が仏教になっています。これはお釈迦さんの悟りではありません。よく似たような所はありますけれど、全く違うのです。
釈尊の悟りは一切空とはっきりしているのです。般若心経は正確とは言えませんが、釈尊の悟りをほぼ正確に伝えているのです。
般若心経は仏教に反対しています。例えば、無苦集滅道、無知亦無得、以無所得故と言っています。無苦集滅道とは、四諦のことです。四諦八正道は、日本の大乗仏教の中で、唯識論の中心になっている。それを般若心経は真正面から否定しているのです。般若心経が仏教ではないことを、般若心経自身が主張しているのです。
般若心経を、仏教の経典としてではなくて、命の真髄として、その字句をはっきり見極めて頂きたいのです。
死にたくないという皆様の本心が、本当なのです。人間は死んではならないのです。肉体は滅びます。肉体は消耗品ですから、使えば古くなって、滅んでいきます。しかし、霊魂としての人間の本性は、絶対に死んではならないのです。
このことを、皆様の霊魂は直感的に知っている。これが死にたくないというやみがたい気持ちになっているのです。だから病院が繁盛するという妙な現象になっているのです。
病気は治ってもいいし、治らなくてもいいのです。死なない命をつかまえれば、同じことです。
死なない命はあるのです。イエス・キリストが死人のうちから復活したことは、歴史的事実です。人間が死ななくてもよくなってから、千九百年以上にもなるのです。未だにそれを受けとる人がいない。それをキリスト教はめちゃくちゃにしているのです。
キリストの復活の命が、現実に皆様の命になっていることを、キリスト教が邪魔をしている。それを宗教の売り物にしているのです。死なない命を求めてきた人々に、死んでから天国へ行くというのです。キリスト教の教義を信じれば、死んでから天国へ行って幸せになると、説いているのですが、そんなことは一言も聖書には書いていません。
聖書は、今生きているままで、永遠の命を得ることができる。イエス・キリストの十字架、復活によって、今生きている人の命が、復活の命になっているという、驚くべきことを書いているのです。
キリスト教の教義は、全部嘘です。死んでから天国へ行くのではない。今生きている間に、天国へ入れと言っているのです。
宗教の観念はこの世では通用しますけれど、この世を去ってしまえば、全く通用しません。霊魂はそれを知っているのです。だから皆様は、何となく宗教が信頼できないような気がするのです。
イエスはただの青年でした。宗教が全く嫌いな青年でした。だから、宗教家を偽善者だといって、ひどく叩いているのです。宗教家と律法学者を、ひどく嫌っていたのです。今、皆様の心を毒しているのは、宗教と学問です。この二つが、皆様の魂の純粋さを、めちゃくちゃにしているのです。
現在の日本では、命を正確に説明する人がいません。死ぬに決まっていると思っていることが間違っているのです。イエスが復活したという事実をよく勉強すれば、死ななくてもいいのです。これは本当です。西暦紀元と日曜日があるということが、その事実を確証しているのです。
現に皆様の霊魂は、死にたくないとはっきり思っています。死にたくないという霊魂の声を、素直に、率直に聞いて頂ければ、いいのです。



 

 

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