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リビング


私たちは現在生きています。生きていることは何をしていることなのか。これが分からないのです。これは全くバカみたいなことです。
生きている状態は誰でも分かっています。ところが生きていることの実質が何であるのか分からない。これは現在の人間の考え方が概念的になっているからです。いわゆる世間並みの考え方が、常識になっているからです。
生きていることは間違いないのですが、生きていることが何をしていることなのかが分かっていない。灯台もと暗しという言葉がありますが、全く灯台もと暗しもいいところです。
生きていることは何をしていることか。簡単に言いますと、皆様が生きていらっしゃるのは、命を経験していらっしゃるのです。生きていることを英語では、リビング(living)と言います。リビングが命です。リビングという言葉は誰でも知っています。生きることが中心になって、リビングという言葉を用いますけれど、ザ・リビング(the living)になるともう分からないのです。
リビングという言葉と、ザ・リビングという言葉とは違います。定冠詞をつけますと、生きていることの本質になるのです。これがもう分からないのです。リビングは分かるけれども、ザ・リビングが分からないのです。
マン(man)も、人間は誰でも知っています。ザ・マン(the man)になると、もう分からないのです。
ザ・マンは人間の本性、本質です。肉体的に存在する人間の本体が、ザ・マンです。これが分からないのです。
神が分からない。日本では神といっても、神の本質といっても、同じ言葉を使いますが、ゴッド(God)とザ・ゴッド(the God)は、全然違います。ゴッドは神の概念です。ザ・ゴッドは神の実質、実体になるのです。神の実質、実体が分からないのです。
人間は何となく生きています。だから分からないのです。足元に暗闇が広がっているような生き方をしています。これが危ないのです。
皆様は生活のことには熱心ですが、生命のことには不熱心です。生きていることには熱心です。ちょっと病気になれば、すぐに医者に行きます。しかし、生命の実質を知ろうとしていない。これが危ないのです。
般若心経と聖書は、どちらも宗教家が書いたものではありません。釈尊は宗教家ではなかったのです。全くの素人でした。その人が人生について、又、人間が何のためにこの世に生きているのか、分からなかった。それで自分自身の命を見つめるために、皇太子の位を捨てて、ザ・リビングを選んだのです。これが本当の人間の生き方です。
釈尊は宗教家でも学者でなかった。ただ人間が生きていることに疑問を感じた。何のために苦しまなければならないのか。何のために病気になって死んでいくのか分からない。それで、生老病死という四つの問題を究明するために、彼は自分の立場を捨ててしまった。
今日の日本人から考えますと、全くバカみたいなことをしたのです。ところがこれが本当の生き方なのです。
なぜかと言いますと、確かなことと言えるのは、今生きていることだけです。この他に、確かなことはありません。国とは何であるか分からない。国のために死なねばならないとはどういうことなのか。戦争になれば、しかたがないから死んでいくのです。
しかし、本質的に言いますと、国という言葉と、国家という言葉は、全然違います。国家は国を形成する方法なのです。国は存在している原形です。国が存在している原形と、国を経営している方法とは違います。国家が国の全体を握り込んでしまって、自由に振り回している。これが間違っているのです。
国家は経営の問題です。例えば、商売をするとか、会社を経営するということが、国家に相当するのです。国というのは、家庭にいる人間そのものをさすのです。
国全体が軍国主義に引きずり回されることが、なぜ起きるのかと言いますと、人間が生きていることについての本質を、はっきり弁えていないからです。
人間が生きているのは、命を経験するためです。お金儲けをするとか、長生きするとかいうことではありません。長生きしてもいいのですが、命を経験するというのは、時間が長い短いの問題ではなくて、一年でも二年でも、本当にまじめに生きるということをしさえすれば、命の実体は分かるのです。
命の実体が分かると、死ななくなるのです。死なない命を発見することができるのです。
命は本質的に言いますと、死なないものです。霊魂不滅という言葉がありますように、皆様が生きていらっしゃるのは、命の本質を実体的に生きているのです。これが魂です。魂は不滅であるのが原則です。これは生きていることを明確に、綿密に勉強すれば、分かることなのです。
これは宗教ではありません。宗教は死んだら天国へ行けるとか、極楽へ行けるとか、現世で幸福に生活できると言うのです。
現世でいくら幸福に生活しても、死んでしまえば、元もこもなくなるのです。命の本質を弁えずに生きていても、全く何にもならないのです。
死んでしまえばそれまでという人がいますが、それはただの考えであって、命をまじめに考えていない人は、そう考えるのです。これが大きな間違いです。
私たちが現世に生きているのは、命を経験するためです。命を経験するというのは、利益も損害もないのです。損であれば損という経験です。利益であれば利益を経験している。苦しいことがあれば、苦しいことを経験している。すべて人間は、命を経験しているのです。生きていれば、自然に、命の勉強ができるようになっているのです。
命の勉強ができさえすれば、死ななくなるのです。命とは死なないもので、死んでしまうものは命とは言わないのです。
生命と言いますが、命(めい)というのは、現世で人間が生きている命を言います。生(せい)というのは、命の本質です。生を掴まえるのです。生を掴まえますと、死なない命がはっきり分かるのです。生は絶対に死にません。死ぬものは生とは言わないのです。
皆様が現在生きておいでになるのは、生(せい)を経験していらっしゃるのです。ところが、皆様の生活概念は、命(めい)になっている。だから死ななければならないことになるのです。
般若心経は、現在人間が生きている状態が、空であると言っています。五蘊皆空というのは、人間の思いは皆間違っていると言っているのです。日本人の生き方は、はっきり間違っているのです。
般若心経は、仏教は間違っていると言っているのです。仏教の中から、四諦八正道を抜いてしまいますと、仏教が空っぽになるのです。仏教教義が壊滅してしまうのです。般若心経をまともに信じることになりますと、現在の日本の寺院仏教は、成立しないのです。
現代文明全体が、錯覚の塊です。死んでいく人間ばかりが集まって、たわごとを並べているだけです。特にユダヤ人のたわごとにすぎないのです。その証拠に、文明を信じている人間は、全部死んでいくのです。
イエス・キリストは、宗教が大嫌いでした。宗教をぼろくそに言ったのです。災いなるかな学者パリサイ人と言っている。宗教家を真っ向から叱りつけたのです。その結果、宗教家に殺されてしまったのです。
イエスが十字架につけられたのは、宗教家によるのです。ところがキリスト教は、イエスを宗教のご開山のように考えている。もしイエス・キリストがやってきたら、全世界のキリスト教は、片っ端から潰されるでしょう。
宗教の中で、一番間違っているのは、キリスト教です。永遠の生命を提供すべきなのに、死を提供しているからです。キリストの名によって、人々を地獄へ引っ張っていくからです。
 

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