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唯心と唯物

 

唯心とか唯物とかいう考え方は、ユダヤ人が考え出した二元論であって、善がある悪がある、生がある死があるという、いわゆる相対的な物の考え方が間違っているのです。
だいたい、唯物とか唯心というものがあるのではない。物も心も一つなのです。例えば、物理運動が、物体になっている。要素が物理的に働くことによって、物質現象が生じるのです。
物理は、精神的なものです。又、物体は、物理的なものです。両者は、一つのものです。一体、物理が、どうして物体になるのか、物理とは何なのかということです。例えば、電子の働きがあります。電子がなければ、電気はありえないのです。
電子の働きは、粒子のようなものでもあるが、又、流れのようなものでもあるといわれています。電気現象の真髄が、今の文明では分からないのです。
今の文明は、物質と精神を分けて説明する二元論の考え方に立っているのです。ところが、宗教ではない聖書の中心、般若心経の基本的な原理は、一元論であって、色は空である。空は色であるといっているのです。
人間の肉体は、あると思えばある。ないと思えばないのです。あるとはどういうことかといいますと、人間の肉体は、呼吸機能と循環機能、消化機能が働かなければ、生存できないのです。生理機能が、肉体になって現れているのです。
運動と存在は、一つであって、運動の根本原理が、何かということです。存在とは何かということです。命なのです。存在の根本は、命なのです。
命の本質が、神なのです。唯物的なものでもあり、唯心的なものでもあるのが、存在なのです。
これは、目に見えるものでもあり、見えないものでもある。これを、命というのです。生きることが、そのまま存在を意味するのです。だから、命が分からないままの状態で、自分が存在すると考えるのは、非常に倣慢な考え方なのです。これは、人間存在の本体をつかまえていない所からくる、全くの錯覚なのです。
現代文明は、人間を錯覚の牢獄に入れているのです。ユダヤ人が、こういうバカなことをしているのです。ユダヤ人の考えをくつがえせば、世界の文明は、ひっくりかえるのです。これができるのは、日本人だけなのです。そういう意味で、日本は、不思議な国です。
私達は、命を知らなければならないのです。死なない命を、つかまえればいいのです。魂は、それができるのです。
私達の舌は、おいしい味が分かるのです。刺身を食べて、おいしいものと、あまりおいしくないものがあることぐらいは、分かるのです。甘口の酒、辛口の酒が、すぐ見分けられるのです。味が分かるのは、その人の存在が、霊魂であるからです。
味は、人間が造ったものではないのです。砂糖の味は、人間が造ったものではないのです。天然現象なのです。
味に、人格があるのです。「おのずから」に、人格があるのです。これが神です。舌は神をつかまえているのです。
味わえるということは、神をつかまえる能力があることを、証明しているのです。この能力をまっすぐに用いれば、死なない命を見つけることはできるのです。素直になればいいだけなのです。
般若心経を、よく読んで頂ければ、いいのです。
聖書は、読んでも分かりません。聖書は、教えてもらわなければ、分からないのです。
キリスト教は、だめです。聖書を、売りものにしているだけです。キリスト教は、聖書が充分に分からない状態で、分かったようなことを言うから、いんちきなのです。三分の一ぐらいは、分かっているでしょう。あとの三分の二は、全然分かっていないのです。神
の実体が分かっていないのです。
五官の働きは、そのまま、神をつかまえているのです。景色が美しいことが分かるのは、天の命が分かることなのです。
生きていることを素直に見ていけば、死なない命は、必ずつかまえられるのです。
 

 

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