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ユダヤ主義

 

生きるとはどういうことか。小さく言えば、個々の人間が生きていますし、大きく言えば、太陽系宇宙が生きています。ミクロ的な考えと、マクロ的な考えと、両方あるのです。
人間は現在生きています。生きているという事実を、できるだけ冷静に、平明に見ていくのです。平明に考えないと、人間の業(ごう)は分かりません。
日本人は、景色のことを風光と言います。風景とも言います。皆様が景色をごらんになって、お感じになっているのは何なのか。これが平明に分かりさえすれば、死なない命を見つけることはできるのです。
宗教では、死なない命は分かりません。宗教は人間にアピールするためにあるのです。レベルが低いのです。宗教も学問も、現世に生きている人間の、生活の知恵なのです。皆様の命は、宗教よりも高いものです。学問よりも高いのです。
皆様がお生れになったのは、ご自分の意志でお生れになったのではありません。そうすると、皆様の命はどこから来たのでしょうか。これを平明に考えて頂きたいのです。
平明というのは、平易明確ということです。理屈を言わないで、素朴な気持ちで、感じるとおりに見ていくのです。これが霊魂の本当の姿を見る見方でありまして、現代の文明では、学問、宗教が、やたらに繁茂しているために、素朴に見られなくなっているのです。
学問が大変に悪いのです。人間の魂をゆがめてしまったのです。学問があるために、自分の命をまっすぐに見られないような習慣がついてしまったのです。これが現代文明の大欠点です。
学問主義は、ユダヤ主義なのです。資本主義、社会主義、自由主義、民主主義等は、ユダヤ人学者が考え出した主義なのです。こういう思想に、ユダヤ人はかぶれていますので、素朴に魂を見ることが、できなくなっているのです。だから命が分からないのです。
命を見るためには、自分が生きていることを、じっと見ればいいのです。学問は人間が生活するための知恵であって、本当は学問というしかめつらしいよび方をする必要がないのです。人間の霊魂の真髄、人間の命の本当の姿を学ぶことを、学というのですが、そんなものは日本にはないのです。
明治時代になってから、文明の程度がどんどん下がったのです。人々は文明の程度が上ったと考えていますが、これは間違いです。ユダヤ主義にかぶれているからそう考えるのです。現代の文明を讃美している人は、皆学問主義、ユダヤ主義にかぶれているのです。
ユダヤ人が間違ってしまったために、全世界の人々が大迷惑をしているのです。
皆様は、ご自分の意志で生れたのではないということを、よく考えて頂きたいのです。皆様が生れたいと思ってお生れになったのなら、命は皆様のものです。生れたいと思わないのに生れてきたことになりますと、命は皆様のものではないことになるのです。
日本にはお天とうさんという言葉があります。内容はからっぽですけれど、すばらしいニュアンスを持っているのです。仏教には、こういうすばらしい言葉はありません。
聖書も神のことを父と呼んでいます。イエスも神を父と呼んでいますが、父というのはしかめつらしい言い方であって、本当はあば父(おとっつあん)というのがいいのです。あば父という言い方は、お天とうさんという言い方と、よく似ているのです。命の源泉を、お天とうさんと呼ぶ気持ちになれば、皆様は自分の命がはっきり分かるでしょう。そうすると、死なない命が分かってくるのです。分かれば業が果てるのです。
命を勉強するためには、自分がどこから生れてきたのか、命は誰のものかを、勉強する必要があるのです。
人間は、何かの原因、誰かの意志でこの世に出てきたのです。地球上にだけ、理性を持った人間がいるのです。人間という動物は、一体何であろうか。味が分かる。形が分かる。色が分かる。ちょっと見だけで、重いか軽いか分かるのです。こういう崇高な精神機能と、人格という奇妙なものを持っているのです。
人間は、人格という奇妙なものを持って、理性という不思議な精神能力によって生きている。これは一体何であろうか。皆様が現在生きていらっしゃる姿は、そのまま父の現れなのです。
父とは何かと言いますと、宇宙に命があるのです。命には二種類ありまして、人間が現世に生きている命を命(めい)と言います。生(せい) は生れる前のいのちです。生は現世を去ってからも続いていく命です。これは永遠の命です。命(めい)は、現世のいのちです。この二種類の命があるのです。現世の命を持ったままで、生(せい)を見つけることはできないのです。
皆様は、過去という時間と、現在という時間、未来という時間を区別して考えることができるでしょう。これが考えられるのは、人間だけなのです。
神は常時現在です。神には、過去も、未来もないのです。人間だけにあるのです。自分が現在生きている精神内容をよく見ていきますと、皆様の父が何であるかが分かるはずなのです。現世の親から生れてきたというのは、中国の儒教の精神です。儒教の精神はこの世の精神であって、永遠の命とは違うのです。
孔子は「我いまだ生を知らず、いわんや死においておや」と言っています。生きていることが分からない。従って死んでからのことは分からないというのです。孔子の教えは、現世の生活に関する教えであって、命を正しく教えていません。般若心経の方が、よほどましなのです。
ところが、日本では般若心経が仏教のお経になったために、般若心経の本当の精神が、いまだかつて正しく説かれたことがないのです。般若心経の解説書は、何百冊も出ていますが、皆中途半端なものばかりです。はっきり言えば、嘘ばかり書いているのです。空を自分で実験していないのです。言葉の説明はしていますが、般若心経と霊魂の関係を、全く説いていないのです。従って、般若心経の解説書を、何百冊お読みになっても、本当のことは分からないでしょう。
般若心経を本当に知りたければ、自分を見ればいいのです。観自在とは、自分自身の本質を見なさいということなのです。
皆様が現在生きておいでになる命は、必ず死ぬにきまっている命なのです。これは誰でも分かるはずです。死ななければならない命を、なぜ自分の命だと思うのでしょうか。
命の勉強を真剣にしたいと思われるのなら、死なねばならない命を、自分の命だと思うことをやめることです。これを般若心経は、五蘊皆空と言い切っているのです。
究竟涅槃を実行すれば、死ぬべき命が自分の命ではないことぐらいは、簡単に分かるのです。
命が自分のものではないことが分かっても、誰の命か分からない。般若心経ではこれが分からないのです。
皆様の命は、皆様を生んだおやじのものなのです。肉体の父親は、本当の父親ではないのです。皆様に必要なのは、霊魂のおやじなのです。皆様を地球に生みだした力、そのエネルギーが、父なのです。太陽をごらんになれば、それが分かるはずなのです。太陽をじっとごらんになると、それが父の姿を端的に現しているのです。
現在の皆様の命は、死んでしまうにきまっている命です。この命に執着しておいでになると、皆様の霊魂は、必ず死んでしまいます。そこで生きているうちに、霊魂がどこからきたのか、何のためにこの世に生れてきたのかを、勉強しなければならない責任があることを、よくお考え頂きたいのです。

 

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