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死ぬべき命は存在していない


人間は、死ぬに決まっている命を、自分の命だと思い込んでいます。これは愚かというか、気の毒というか、言い様がないほど、馬鹿げたことなのです。全世界の人間が、皆そう考えているのです。
今、皆様が生きていらっしゃる命が、死ぬに決まっている命であることを、十分に承知していながら、その命を自分の命だと思っていらっしゃいます。これは文明のためです。文明を無批判で100%信じているために、こういう訳が分からないことを、人間はしているのです。
人間が死ぬことが、自分で分からないのなら、しかたがないのですが、死ぬに決まっていることが、良く分かっていながら、なお、その命に頼っている。その命にかじりついている。だから人間は、間違いなく死んでいくのです。
私は、人類が死んでいくのを、黙って見ていられないのです。だから色々な本を書いて、警告しているのです。
般若心経と聖書を、宗教ではない角度から見る人がいない。仏教ではない般若心経、キリスト教ではない聖書を、一つにして、はっきり究明する人がいないのです。
般若心経の本当の内容が、日本では全く説かれていません。欧米でも、本当の聖書が説かれたことがないのです。
イエスが現世にいた時には、本当の命を語ったのですが、これは新約聖書ができる前のことです。新約聖書ができてから、宗教ではない聖書が、正確に説かれたことがないのです。
日本人の場合、般若心経によって人間自身の考えを捨ててしまわなければ、聖書を神の言葉として読み取ることはできません。ところが、日本人は聖書を敬遠しているのです。キリスト教が説いている聖書は間違っていますが、聖書を読まなければ、命の言葉は全く分かりません。
聖書を正しく読んでいけばはっきりば分かることですが、死んでしまうに決まっている命は、地球上にはもう存在していないのです。イエス・キリストの十字架によって、死ぬべき古い命は消えて、復活によって死なない命の存在が証明されたのです。
日本人が現在自分の命だと思っているものは、肉体的に存在している命です。これは死ぬに決まっている命ですが、この命は、もはや存在していないのです。現在、世界68億の人間が生きている命は、幽霊のようなありもしない命を、あると思い込まされているだけのことなのです。
般若心経はこの盲点をついているのです。人間が考えているのは、自分自身の五蘊です。五蘊を命だと思っているのです。自分が生きていると思う気持ち、自分の経験、自分の記憶、社会通念を自分の命だと思っているのですが、そういう命は、もはや存在していないということを、新約聖書は断定しているのです。
キリスト教会へ行っている人は、死んでからも命があると思っています。愚かな考えです。現在のキリスト教は、はっきり欧米の宗教であって、これが日本で押し売りされている。キリスト教が現在の文明の根幹をなしているのです。
現代文明によって人間の本心、本体は盲にされてしまっている。このことを警告するために、私は色々な本を書いているのです。
死ぬべき命は、もう存在していません。皆様は考え違いをしているだけです。肉体的に命があるとお考えになっていることが、間違っているのです。
生命の命は、人間が現世に生きている命をいうのです。生というのは、死なない命のことです。命の本質、本性が生です。
いのちの本質が、肉体的に現われていることが、生命です。皆様は生命を経験していますが、生が分かっていないのです。聖書は生の内容を書いているのです。
イエスが死を破ったというのは、歴史的事実です。キリスト紀元は、宗教ではありません。2008年はキリスト紀元であって、死ぬに決まっている命が消滅してから、すでに二千年にもなるのです。ところが、未だに人間が死ななければならないと考えている。これを、ばかばかしいことだとお考えにならないのでしょうか。
命の言葉である神の聖書を読んでいないということは、誠に愚かな人生観を、人間に強制していることになるのです。
神の言葉である聖書を敬遠する結果、命が分からなくなっているのです。私はキリスト教を薦めているのではありません。キリスト教は、聖書を利用して、営業をしているだけです。カトリックは世界中で一番大きい不動産を持っている。これは大会社です。
そういう宗教を学ぶ必要はありません。皆様自身の命の実体に促して、ご自分の本当の人生をご覧になればいいのです。
皆様の世界観が間違っています。世界観が間違っているために、価値観が根本的に間違っているのです。死にたくないのなら、死にたくないと、はっきりお考えになったらいいのです。これがはっきり言える人は、死なない方法が見つかるでしょう。
死んでしまうに決まっている命は、二千年も前になくなっているのです。イエス・キリストの復活以後、皆様が生きておいでになる命は、死なない命になっているはずです。
ところが、死なない命が全然分かっていない。聖書を間違えて受け取っているからです。なぜ聖書が間違って受け取られているかと言えば、般若心経の空が分かっていないからです。
今皆様が生きておいでになる命は、空の命です。からっぽの命です。聖書によれば、すでになくなっている命であって、これを般若心経では、五蘊皆空の命と言っています。
思いが変われば、命が変わります。皆様の思いは、命のあり方が間違った思いです。死んでしま、命を、自分の命だと思い込むのを、やめればいいのです。
そうすると、死に対する恐怖心がなくなってしまいます。思いを変えればいいだけのことです。般若心経はこれを言っているのです。
般若心経は仏教の経典だと考えていますと、本当の意味を捉えることができなくなるのです。なぜかと言いますと、日本の憲法では、信教の自由と言っています。信じてもいいし、信じなくてもいいのです。信教の自由という言葉を読みますと、百人中ほとんどの人が信じなくてもいいという方に、受け取ってしまうのです。従って、般若心経も信じなくてもいいということになるのです。
信じるということは、人間にとって何となく負担に感じるのです。そういう負担を持ちたくない。宗教は信じなくてもいいと考えるのです。日本の憲法をつくった人は、人間の命を全く知らない人なのです。
国家組織は人間の生活の世話をすればいいのです。命の保証をしなければならない義務は全くないのです。ちょっと皆様は、文明、国を信じすぎていないでしょうか。
皆様は何を頼りにして生きているのでしょうか。誰を頼りにして生きているのでしょうか。命については誰も頼りにできないのです。命のことは、皆様自身が責任を持つしかないのです。
命は知恵、知識の根源です。知恵は皆様の思いの根底に存在するものです。正しい知恵をはっきり認識すれば、そのまま死なない命につながっていくのです。
聖書に、その言葉に命があった。その命は人の光であったという言葉があります。命を認識することができるのは、人間だけなのです。人間が自分目身の命を綿密に、平明に、正確に認識すれば、死ぬべきはずのものではないことは、明々白々になるのです。
これは死んでから天国へ行くというばかな話とは違います。目の黒いうちに、はっきり神の国、死なない命を明確に捉えることができるのです。
死んでしまうに決まっている命を、自分の命だと思い込んでいらっしゃる方には、それが間違っていると言わざるをえないのです。
今という現実に、命があるのです。自分という間違った思いがあるために、気がつかないだけなのです。
 

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