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真実と嘘


人間は生活することには大変熱心ですが、命については全く不熱心です。これはおかしいことですが、事実、現在の日本人は、そういうおかしな心理状態で生きているのです。
宗教を信じている人は、ずいぶんあります。自分が幸せになりたいから、宗教を信じるのでしょう。
自分が幸せになりたいという場合の自分とは、一体なんでしょうか。人間は、自分がいると考えている。ところが、人間の本性は霊魂そのものでありまして、自分という人格ではないのです。
自分という人格は、英語で言いますと、エゴ(ego)であって、自我です。これは本当の自分ではないのです。
英語には、エゴという言葉と、アイ(I)という言葉と二つありますので、分かりやすいのですが、日本語には、私とか、自分という言葉しかありません。私といっても、自分といっても、同じことなのです。
人間は、自分の意志で生れてきたのではありません。ところが、現在、皆様は、自分の意志で生きていらっしゃる。これは人間の生命の本質から考えますと、始めから間違っているのです。
自分という性格は、現世に生れた後の性格でありまして、本来の人間の霊魂にかかわる人格ではないのです。本来の人格と、後天的な、現世に生れてからの性格とは、ちょっと似た所がありますが、本質的には全然別物なのです。
人間の性格は、仏教的に言いますと無明です。無明というのは、生れながらの妄念という意味になるのです。生れながらの妄念に基づいて、自分という性格が発生しているのです。そういうものを本当の自分だと思っていますと、皆様の命は、この妄念に吸いとられてしまうことになります。
自分が幸せになるために宗教を信じることが、始めから迷信なのです。自分が幸せになるというその自分が、妄念によって発生した人格ですから、そういうものに引きずられていますと、結局、霊魂について、明確な認識を持つことができなくなります。
宗教は、無明の人間が造った一つの理屈であることを、よくご承知頂きたいと思います。
般若心経は仏教で用いられてはいますけれど、本来、般若心経の思想は、宗教を否定しているのです。無無明 亦無無明盡 乃至無老死 亦無老死盡 無苦集滅道という言葉があります。これは、般若心経のまん中にある言葉ですが、十二因縁はないのだといっているのです。
無明に始まって、老死に終わる。これは十二因縁のことですが、十二因縁は仏教の唯識論の基本原理なのです。それがないといっているのです。般若心経は、実に勇敢に、大乗仏教の唯識論を否定しているのです。
無苦集滅道というのは、四諦八正道がないといっているのです。般若心経は、仏教の教説をまっこうから否定しているのです。だから、般若心経は宗教ではないのです。又同様に、聖書も宗教ではないのです。宗教ではない般若心経、宗教ではない聖書が正しいのです。
般若心経は、釈尊の悟りの中心を集約したものです。空を中心にしているのです。空とか無という大精神は、東洋思想の真髄であって、般若心経二百七十六字の中に、三十五、六字も含まれているのです。般若心経は、ほとんど空、無を説いているといってもよいでしょう。
これは、仏教という宗教は無である、空である。人間の常識も空であるといっているのです。
人間は、この世に生れた自分、有形的、肉体的に存在するものを自分と思いこんでいるのですが、これが無明なのです。妄念なのです。この妄念に基づいて、文明社会ができています。仏教という教えができています。キリスト教という教えができています。
般若心経は、本来仏教の経典ではないのです。聖書はキリスト教の経典ではないのです。このように、皆様は生きていながら、命を考えておいでにならない。
生きることについては非常に熱心ですけれど、命については不熱心です。病気になるとあわてて医者へ行く、病院へ行きます。ところが、霊魂の病については、真剣に考えようとしていないのです。
現在の日本人の考え方は、全くどうかしているのです。日本人には正しい世界観がまるでないのです。正しい価値観がありません。神が何であるか、仏が何であるか。そういうことについての正しい認識を、ほとんどの人が持っていないのです。
宗教は、無明の人間が幸福になるために、教義という理屈をつくりあげたのです。自分にとって便利になるような理屈をつくりあげたのです。
宗教を信じるのは自由ですが、それは真実ではありません。真実ではないことを承知して、道楽で宗教通いをすることもありうるのです。だから、それを承知でなさるのなら、それはご自由ですが、そのかわりに、自分の霊魂を棒にふることになります。
宗教は、はっきり人間を欺いています。いわば病気に対するやぶ医者みたいなものであって、免許を持たない偽医者みたいなものです。本当の人生、本当の命をしっかり踏まえていないのです。
人間は見るということが分かっていないのです。自分の目一つのことでも、普通の常識で考えますと、自分の目が見えるとか見えないとかいう言葉を使います。つまり、自分の目で見ているつもりなのです。これが間違っているのです。こういう考え方が、無明なのです。
実は、目が物を見るのではなくて、皆様の目に物の影がうつっている。光線の反射によって、皆様の目の網膜にうつっているのです。
見ているのではありません。皆様の目は、自然にうつっている影像が、皆様の視覚神経に見ているというように感じられるのです。人間は、自分の目がどのように働いているかということさえも、気づいていないのです。
例えば、皆様が黄色い色を見るとします。私の目の前の花が、黄色に見えるとします。ところが、この花は、黄色を拒んでいるのです。黄色を拒否していて私たちの網膜に、黄色一色がとびこんでくるのです。そこで黄色に見えるのです。
黄色に見えるということは、この花が絶対に黄色ではないことを説明しているのです。こういうことを、般若心経では五蘊皆空といっているのです。
皆様方の考えは、妄念のかたまりです。学問も、常識も、道徳も、すべて妄念のかたまりです。そういう頭で宗教を信じているのですから、とんでもない間違いをしているのです。
現在、皆様の心臓が動いています。心臓が動いているという事実が、神という事実なのです。神とは、最も顕著な実体であって、明々白々な、最も大きい事実です。この最も大きい事実、実体、真実が、皆様の精神に何の影響も与えていない。
皆様の霊魂は、自分自信の妄念によって死んでしまっているのです。そういう頭で、現在の日本人は生きているのです。
私は、現代の日本人の世界観や価値観が、全く妄念のかたまりであることがはっきり分かっていますので、このままで捨てておくべきではないと考えているのです。皆様を宗教団体にひきずりこもうとか、お金を集めようとか、般若心経を写経して千円をつけて下さいとは言いません。ただ皆様に、今生きておいでになるその命を率直に見て頂きたいと願っているだけなのです。宗教から出ることをお勧めしているのです。
生きていることをまっすぐに見れば、命が見えるのです。例えば、日曜日ということです。日曜日は、イエス・キリストの復活記念日です。イエス・キリストが十字架につけられて、三日目に甦った。復活しました。この記念日が日曜日です。ところが、復活記念日ということを誰も知りません。こういうことを考えずに、休んでいるのです。
2008年というのは、キリスト紀元なのです。なぜキリストが生れたことによって世界の歴史が新しくなったのかということを、まじめに考えようとする人は、めったにありません。キリスト教でもこのことをはっきり教えません。
キリスト教は、イエス・キリストが復活したことは信じます。しかし、復活とはどういうことなのか、死を破ったとは科学的にどういうことなのか、現在の人間の命と、イエスが死を破った命とは、どういう関係になるのかというようなことを、具体的に説明いたしません。
世界中のキリスト教は、間違っています。旧教も、新教も、皆間違っています。イエスの復活が分かっていないからです。
イエスの復活は、歴史的事実なのです。現在、聖書は永遠のベストセラーといわれるように、一年間に何千万部と売られているのです。ところが、イエスの復活をまともに信じている人はめったにいないのです。
宗教は真実ではありません。嘘です。宗教はある精神段階では参考になりますが、とことん勉強していきますと、皆様の霊魂を裏切っていることが、分かるのです。本当のことを教えていないのです。人間の考え違いは、宗教が大きく原因しているのです。
 

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