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意識の転換

 

意識を転換しますと死ぬべき命から離脱して、死なない命に変化してしまうのです。考え方を根本的に変えてしまうので。死んではいけないと思い続けることとは違うのです。死ぬのは当たり前だという考えを積極的に否定するのです。死なないのが本当だという意識に転換するのです。
一般社会の常識は仏教的に言いますと、無明になるのです。聖書的に言いますと、原罪になるのです。世間並の人間の考え方が当たり前だと思い込んでいることが、人間の魂の根本的な病気です。魂の病気を治してしまうのです。そうすると魂が健康になるのです。
皆様は常識を信じておいでになります。これは神の処置が人間をそうしているとも言えるのです。皆様は死なねばならないような常識を持たされてしまったのです。だから救われるのです。死なねばならないような常識を持たされてしまったので、自分の意識を転換すれば救われるのです。死ななくなるのです。
もし皆様が始めから完全な命、死なない命を与えられていて、死が全然分からない状態であったとすれば、神を知ろうとか命を知ろうとかをお考えにならないでしょう。ですから本当の命の認識は起こりようがないのです。
動物は死にません。ただくたばるだけで死なないのです。命とか死を認識する機能を持っていないからです。動物は宇宙構造から考えますと、人間の心理状態の一つの雛形になっているのです。
命の現われの全体を生き物と言います。大ざっぱに言いますと、植物性の命と動物性の命とは次元が違うのです。植物性の命は動き回るとか、食べたいものを食べることができません。動物はそれを積極的にすることができるのです。植物はただ与えられたものを受け止めるだけです。それは命には違いありませんけれど、命の本性の不完全な現われと言えるのです。
動物の命はリビング(living)という言葉が使える命です。生き生き動くというのが命の本来的な性質ですが、これが動物に現われているのです。
人間はリビングが完全に現われている命の形態です。その人間が自分の命を正しく認識して、その価値を知ることができますと、すべての生き物を治めることができるのです。 鳥、獣、虫、陸上にいる動物は全部人間の生命形態に属しているのです。水中の動物は大体植物性の生命に近いのです。陸上の動物は昆虫を含んで生物全体が人間の生命に近いのです。
陸上にいる生命は命のあり方の色々な層を現わしているのであって、獣がいるのではない。馬とか牛がいるのではないのです。そのような命の性質を現わしているだけなのです。これが神的な見方なのです。人間の意識のある面が虫になって出ているのです。馬になって出てくるのです。
人間は陸上動物のすべての意識を総合的に持っているのです。だから陸上動物を人間は自分の意識によって使うことができるのです。馬を調教するとか、犬を盲導犬にする、警察犬にするというのは、人間の中に犬の意識があるからできるのです。人間と犬に共通する意識があるのです。
生き物すべてを統括する能力を持つものが人間の命の本性なのです。それをはっきり確認することが、永遠の命を確認する方法になるのです。
人間の心配とか行き詰まりとか、気持ちが暗くなる原因は煎じ詰めると、自分が生きていると思っているからです。これが間違っているのです。自分が生きているという事実はありません。生きている自分がいるのです。自分が生きているのではありません。生きていることが自分として現われているのです。主体が逆になるのです。
自分が生きているというのは自我意識になります。自我意識は本質的に神に逆らっているのです。自分という意識は持ってもいいのです。何のために自分という意識を持つかと言いますと、自己中心の命を持つためとは違います。
自分という意識は命を経験するために持つのです。ここが難しいのです。皆様は今生きておいでになりますが、生きておいでになるということは、命を経験していることなのです。何のためかと言いますと、万物を治めるためにまず命を経験して、命の本質を悟るためなのです。このために、自分という意識があるのです。
万物を治めることが入間完成の目的です。この世で生活することが目的ではありません。万物を指導すること、万物に所を得させることです。これは人間の命の本質価値をさすのです。仏教にも草木国土悉皆成仏という言葉があるのです。草木国土を全部成仏させると大無量寿経に書いていますが、四十八願の中にあるのです。これは万物を治める人間の本願なのです。
人間は自分が生きることが目的ではなくて、万物を治めるような人間に成長することが目的なのです。神にかわって万物を治めるように、自己を完成することが目的なのです。これは仏教や他の宗教では分かりません。聖書でないと分からないのです。
万物は神の現われなのです。神自身のあり方の現われが万物になって出ているのです。私たちが肉体を持ってこの世に生きているから、神が現われている万物に接触できるのです。肉体を持っていなければ、魂が動植物と接触することはできません。
万物として現われている神が森羅万象の命なのです。森羅万象には命はないが、神がそういう格好で現われているのです。命とは神です。神がそういう格好で現われているだけなのです。森羅万象があるのではないのです。それを認識するためには、私たち自身が肉体を持ってこの地上に現われるしかないのです。
万物が造られる前にも宇宙はありました。地は形なくむなしくという簡単な言葉で現わしています。いわゆる太陽ができる前の宇宙があったのです(創世記1・2)。しかし、この時には命の現われがなかったのです。ただ茫々漠々たるガス星雲のような、アンドロメダ星雲みたいなものがあったのです。そこには森羅万象は全くなかったのです。神の栄光は全然現われていなかったのです。
その時、死の法則が発生したのです。死の法則が発生したので、これを自滅させることを考えなければならなくなった。そこで万物が現われたのです。
死の法則が現われたということが悪魔の出現なのです。悪魔というのは死の法則の原理をさしているのです。死にたくないというのは悪魔と一つになりたくないということと同じなのです。悪魔は終局的に死の権威を持つものです。これを人の魂は嫌っているのです。
この世に私たちが生まれたのは、この悪魔の実体を見極めて、悪魔の思いを解脱するためなのです。
人間がこの世に生まれたのはテストケースです。本当に生まれたと言えるものではないのです。仮に生まれたという形を取らされているだけなのです。本当に生まれたのではない。従って、今生きている命は自分の命ではないのです。神から預けられている仮の命なのです。
今の命を自分の命だと思い込んでしまうと悪魔と同じになるのです。死んでしまう命を自分の命だと思うことになります。自分が生きているという意識は悪魔の意識と同じなのです。自分をどのように考えればいいか。人間本来の使命を全うするためには、万物の生き方を勉強しなければならないのです。
万物の生き方をじっと勉強していきますと、おのずから神が分かるようにできているのです。草木のあり方、鳥のあり方、太陽光線の状態は、すべて神の命をそのまま現わしているのです。神というのはきわめて分かりやすいものです。目で見ているということが神なのです。
ところが、自分が生きていると考えている人には、目で見ていることが神だとは分からないのです。そこで死んでしまうのです。目で見ていることが神だということは、自分が生きているということは、もちろん神の命なのです。神の命を生きているのであって、自分の命を生きているのではないのです。
そうすると草木や動物と人は兄弟関係になるのです。神の力、神の知恵を一口に言いますと、神の栄光になります。神の栄光が万物になって現われている。これを認識するために仮に私たちは、言(ことば)がこの世へ出てきたのです。自分が生きているのではなくて、神の栄光がどのように現われているかということを、勉強するために生きているのです。
人は本来死ぬべきではないのです。それを自分が生きていると思い込んでしまったために、死なねばならない悪魔的な命を自分の命だと思い込んでしまったのです。
自分という意識がなぜあるのかと言いますと、命を経験するため、神を経験するためなのです。同時に森羅万象を見たり触れたりするためなのです。そのためには、経験の主体になる人格がいるのです。
経験するという主体意識がなかったら、馬とはこういうものだ、牛とはこういうものだということを経験できないのです。そのためには経験の主体となるべき人格が必要です。これが魂です。
魂というのは命を経験する主体意識です。すべて経験なのです。食べることも飲むことも、生活も友人関係も、動物と人間の関係も、科学も哲学もすべて経験しているのです。
自分が生きていると思うことは絶対にいけないのです。自分が生きていると思うから、欲にかられてしまうのです。自分が得をする、自分が損をすると思うのです。これが人間を死に引っ張っていくのです。自分が楽しもうと考える。これが煩悩になるのです。
観世音菩薩はじっと見て経験だけしているのです。自分が生きようとしないのです。世音というのはこの世の中の色々なあり方で、これを見るのです。観世音という言葉が人間本来のあり方をさしているのです。
皆様は観音様になればいいのです。そうすれば、ゆうゆうと生きられるのです。観音様は別に偉い人とは違います。ごく当たり前の人です。皆様が観音様になれば自分が生きているという執着がなくなってしまう。そして本当の命の値打ちが分かってくるのです。
人間は何のために生きているのか。この世に生きるために生きているのではない。自己完成をするためです。自己を完成してどうなるのかと言いますと、神にかわって万物を支配するのです。これが万物の霊長なのです。このために人間は生まれてきたのです。
 

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