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神の国

 

聖書には、神の国という言葉があります。今、人々が住んでいるのは、人間の国なのです。イエスは、生きているうちに神の国を見つけて、その中に入れと命令しているのです。
キリスト教で考えているイエス・キリストと、聖書に出ているイエスとは、全然違うのです。イエスは大工の倅でした。家具とか建具を作っていたらしいのですが、この人が神を見たのです。
地球は現在、自転、公転しています。自転とは、夜があけて日が暮れることです。公転は一年かかって、太陽の回りを一回まわることです。なぜ地球は自転、公転を始めたのでしょうか。春には花が咲き、秋には実を結びますが、なぜでしょうか。この根本的な原因が、神の約束なのです。
地球には自然法があります。寒い日には、水が氷になります。水を百度に熱すると、水蒸気になります。これが自然法なのです。
物が上から下へ落ちます。これが自然法なのです。自然法がどうして地球に存在するのか。これが自然科学の原理になっていますが、これがどうして存在するのかということです。
人間が地球に生れてきたのは、理由があるのです。花が咲くというのは、命が花という形になって咲いているのです。これが人間の目に見える神の国なのです。
人の心臓が動いています。心臓が動いているのは、花が咲いているのと同じ原理です。花が咲いていることの原理が分りますと、心臓が動いているという原理が分るのです。
心臓が動いているという原理が、命の原理です。命の原理が分って、その原理を生活しますと、生活のあり方が変ってしまうのです。命が自分の命ではなくて、天地の命であることが分るのです。
花は、天地の命が咲いているのです。花は、枯れますが、死にません。花には死がないからです。人間には死があるのです。死があるのは、咎があるからです。自我意識があるからです。咎があるから人間は死ぬのです。
咎とは業(ごう)なのです。人間がこの世に生れてきたことが、咎なのです。これは自分が作ったでは咎ではなくて、人間が生きているという咎なのです。
人間が生きているのは、業なのです。だから、人に憎まれたり、人に誤解をされたりするのです。この世に生れてこなければ、業はなかったのです。この世に生れてきたばかりに、業が発生しているのです。
例えば、自民党と共産党が、いつも言い争いをしていますが、これが政治的な業なのです。全世界68億の人間は、業に満たされているのです。現在の人間文明は、業のかたまりなのです。
この業のかたまりを徹底的に解明していきますと、神が分ってくるのです。逆に言いますと、神が分りますと、人間の業が全部解けるのです。自分自身の業が、解けてなくなってしまうのです。神を知るというのは、そういう重要な意味があるのです。
神とは何であるか。神という字を見ますと、示すと申すがついて、神という字になっているのです。これは素晴らしい字です。神とは、何かを示して、申しているのです。例えば、花は命を示しているのです。命の本体が、美しいものであることを申しているのです。
地球が自転、公転していることも、神が示し申しているのです。何を示し申しているのか。則を示し申しているのです。
私達が生きているのは、命の則が働いているのです。生理的に死の則が働きますと、死んでいくことになります。生きることの則、死ぬことの則、人間どうしの関係も、則です。則の原理は何かというと、これが約束なのです。
示して申すものが、地球を動かしているのです。いわゆる神の足場が、地球なのです。小さく言えば人間存在、大きく言えば宇宙全体が神の足場なのです。人間とは小宇宙なのです。
神と人は、本質的に同じものなのです。だから皆様の命の本体が分りますと、死ななくなるのです。死ななくなるだけではなくて、現世の人間の生き方の間違いが、全部分るのです。手に取るように分るのです。イエスがこれを証明したのです。
世界にはユダヤ民族がいます。世界全体の政治、経済、軍備、科学、芸術の中心ポイントを牛耳っているのが、ほとんどユダヤ人なのです。この不思議な民族が、神の約束の民族なのです。ところが、このユダヤ民族が困ったものでして、とびきり上等の人々がユダヤ人ですし、また、とびきり悪いのもユダヤ人です。非常に優れたすばらしい人物と、箸にも棒にも掛からないひどい者と、両方あるのです。石川五右衛門と聖徳太子を合わせたようなものです。
日本人とかアメリカ人は、悪いといってもたかが知れています。世界中をひっかき回す悪い人は、日本や中国から出ていないのです。世界中をひっかき回す悪いのは、ユダヤ人に決まっているのです。
イエスもユダヤ人なのです。このイエスが死を破ったのです。日曜日は、イエスが死を破った記念日なのです。2008年は、キリスト紀元であって、イエスが生まれたことが世界歴史の基準になっているのです。この人が、始めて死を破ったのです。本当に、歴史的事実として死を破ったのは、イエスが始めてなのです。イエスがどういう生き方をしたのか、命をどのように見ていたかということです。
例えば、太陽があります。太陽には、効力と、効率と、効果があります。太陽の効きめが三つに分れているのです。太陽の効きめとは何かというと、これが命なのです。命を証明しているのです。
私達は生きているという形で、太陽の効力と効率と効果を、毎日経験しているのです。果物を食べれば、そこに、太陽の効力と効率と効果が、示されているのです。人間が生きていることは、太陽の効きめを毎日経験しているのです。これを生かされているというのです。
太陽の命は、死なない命なのです。宇宙の死なない命を、皆様は毎日経験しているのです。例えば、冬の寒い日に、日溜りで日向ぼっこをしていると、太陽の効率、効力、効果、つまり、生きていることの心地好さ、命のうれしさがしみこんでくるのです。これをつかまえたらいいのです。
これをつかまえますと、今まで自分が考えていた人生の有象無象、矛盾が、消えてしまうのです。
宇宙の命と自分の命が、一つになってしまうのです。人の命は、宇宙の命を実感するため、経験するためにあるのです。自分が消えて、太陽の命の中へ入ってしまうのです。そうすると、太陽が生きていると同じ命で、生きられることになります。
これが、とこしえの命、永遠の命のつかまえ方なのです。これを示し申しているのが、太陽なのです。
太陽という見本を出して、本当の命はここにあるということを、示し申しているのです。これが本当の神です。日本人が考えている氏神、産土神は、神の粕なのです。現世の人間が拝んでいるのは、安物の神なのです。
そういう紙屑みたいな神ではなくて、本当の神を見るくせをつけるのです。一杯の水を飲むにしても、日向ぼっこをするにしても、これが命の本質だと感じて、自分から抜け出して、命の中にとけこむくせをつけるのです。
命の中に入ってしまうためには、神の約束をどうしても勉強しなければならないのです。神の約束を勉強する方法が、日本にはないのです。どうしても聖書を勉強するしかないのです。地球が造られた原因を勉強するためには、宗教ではない聖書を勉強するしかないのです。
生きている意識、生活意識が問題です。人間の命は、感覚と意識で成り立っています。目で物を見る感覚が意識されます。般若心経では、これを五蘊といっています。意識のあり方によって、命のあり方を変えることができるのです。これを信仰というのです。
生理と心理の二つの機能が、人となって現われています。生理機能は肉体のことです。心理機能は精神です。肉体と精神が集まって、人間ができています。生理の理、心理の理が、神の言(ことば)なのです。言が生理的に働いたり、心理的に働いたりしている。
実は、人間は言そのものなのです。理性の本体が、皆様の本命なのです。聖書には、言が肉となって、地上に現われたと書いていますが、これがイエスなのです(ヨハネによる福音書1・14)。私達はそれを経験しているのです。
イエスが人間をどのように見ていたのか、その見方を勉強しますと、死なない命が勝手に分るのです。
本当に死を破って彼岸へ行った人、本当に永遠の命をつかまえたのは、イエスだけなのです。釈尊も、孔子も死んでしまった。親鸞も日蓮も、道元も死んだのです。地球上で、歴史的に本当に死ななかった人は、イエスだけなのです。
人間が死を破ったということは、人間歴史における最大のテーマなのです。軍縮のことよりも、政治、経済のことよりも、大きいのです。命のことは、一番大きい問題なのです。このことを、全世界の学者は、全然勉強しようとしていないのです。
実は、イエス・キリストが死を破ったという事件は、人間文明における学問の、最高の問題なのです。これが分れば、人間の命についての基本的な勉強ができるのです。
これを学会では取り上げていないのです。大学で、これが問題にできないのです。なぜ大学でこの間題を取り上げないのか。これは世界中の学者の怠慢なのです。十五年や二十年の怠慢と違います。二千年もの間、イエスが復活したという事実を知っていながら、これを勉強していないのです。
なぜキリスト紀元が設定されているのか。これについて正しい説明をする責任が、今の学者にはあるのです。科学者にも、歴史学者、政治学者、法律学者、哲学者にもあるのです。
キリストが復活したことは、すべての学問の根本、基本問題なのです。ところがそれを取り上げようとしない。ここに現代教育の間違いがあるのです。だから、人間の生活の仕方は、根本から間違っているのです。
現在の日本人は、命を知らないのです。生きていながら命を知らないのです。これをはっきり言う宗教家は、一人もいないのです。哲学者も学者もいないのです。世界中の学者はこの意味で全部間違っているといわざるを得ないのです。
世界中の学者が全部反対しても、間違っているのは間違っているのです。全世界の文明の根本に、命を無視しているという重大な欠陥があるのです。
死をのりこえたイエスが、どんな気持ちで生きていたかを皆様が勉強されれば、皆様とイエスとが同じものであることが分るのです。
言が肉体となっている事実を魂というのです。魂とは理性が肉体的な状態で生きていることです。これが霊魂です。霊魂が主体、本体ですから、死ぬべき肉体は始めから存在していないのです。
理論物理学から考えましても、物質はないのです。あるように見えるだけなのです。なぜあるように見えるのか。ないはずの地球が、あるように見えるのは、どういうことなのか。一体、人間の業がどうしてできたのかということです。
示して申す神を、正反対にしたものが、悪魔です。悪魔も又、示して申すのです。神は正しいことを示して申すのですが、悪魔は正しくないものを、示して申すのです。
旧約聖書に、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた」(創世記6・5)とあります。無いものを有ると考える悪魔の思考方式が、人間の自我意識になって巣食っているのです。だから人間は、現象が実体である、自分がいるという意識しか持ってないのです。
この意識で考えれば、どうしても現象が実体としか思えないし、固有名詞としての自分がいるとしか思えないのです。宇宙に全然存在しない世界が、実存するように思えてしかたがない。嘘の世界を自分で創造しているのです。
人間は、肉体人間の常識という悪魔の思いに、しつかりつかまえられている。悪魔が自我意識として人間の中に巣食っているのです。
この業から出るためには、自我意識、現象意識と全然別の、生理機能、心理機能として、純粋に生かされている客観的な人を発見する以外にありません。この純粋客観的な人がイエスと全く同じ人なのです。イエスという人格が彼岸そのものです。業を果たすというのは、イエスを発見することです。業を果たすとは、自我意識を捨てて、イエスに渡ってしまうことです。これが、永遠の命をつかまえる具体的な方法なのです。
 

 

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