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霊魂は不滅である


霊魂不滅という言葉があります。霊魂不滅というのは、霊魂が救われることとは別なのです。不滅とは、消えてしまわないということです。霊魂の本質は、神から出たものですから、神から出たものは、消えるはずがないのです。これが、恐ろしいのです。
人間は、神から出て、現世に生きていますので、人間の本性である霊魂は、消えてしまわないのです。だから、死んだ後に、人間の本性がどうなるかということを、はっきり勉強しておかないと、ひどいめにあうのです。
不滅とは、救われることとは違います。教われる魂はあります。霊魂不滅というのは、救われるという意味と、裁かれるという意味と、両方あるのです。
裁かれるというのは、苦しめられるという意味で、不滅なのです。救われるということは、恵みにあずかるという意味で、不滅なのです。不滅という言葉は、いい意味にもとれますし、悪い意味にもとれるのです。どちらにしても、とこしえなのです。これが、霊魂の本性なのです。だから、私達は、命の実体を、どうしても究明しなければならないのです。
明治に訳された元訳聖書には、いのちという言葉を、生と訳していました。改訳聖書、口語訳聖書は、いのちを、命としていますが、本当は、生の方が正しいのです。
霊魂の本質的な命、神の命、生きていることの実体が、生なのです。命は、人間が、現世で、肉体的に生きている命を意味するのです。生は、命の本質を意味するのです。本当の生を、はっきり認識することが大切なのです。
どのように認識するかというと、イエスを信じるということです。イエスを信じるとは、どうするかということです。キリスト教では、イエス様といっていますが、これは、人間がイエス・キリスト様を信じることなのです。
新約聖書には、そう言っていません。どう言っているかといいますと、ヨハネによる福音書一章十二節に、彼を受けたもの、即ちその名を信じた者は、神の子となる力が与えられると説明しているのです。神の子となる力が与えられているかどうかが、問題なのです。
神の子となる力を与えられないで、自分が神の子になったと信じているのです。これは、一方的な信じ方で、信心合一にならないのです。聖書の言葉どおりの経験をすることが、必要なのです。
これは、何かと言いますと、彼を受けること、彼をレシーブすることです。彼の名を信じるという言葉があります。彼の名を信じることが、現在のキリスト教では、全く開かれていないのです。そこで、宗教ではない聖書を、勉強しなければならないのです。
例えば、仏教阿弥陀経の場合でも、阿弥陀如来の名号のいわれをわきまえで、念仏申すなら、仏さんが臨終の時に、迎えにきてくださると言っているのです。これは、今のヨハネによる福音書と、よく似ています。
仏説阿弥陀経は、竜樹菩薩が書いたらしいのです。これは、釈尊の説と、どうも違うのです。新約聖書の教えが、インドへ渡って、竜樹が、仏教にくっつけて書いたようです。ですから、新約聖書の内容と、よく似たことが書かれているのです。
阿弥陀如来の名号を心にとめて、念仏申すならといっているのです。阿弥陀如来の名号のいわれは、何かということです。阿弥陀如来は、始めから如来さんではなかったのです。法蔵比丘という坊さんがいまして、サンスクリットでは、ダルマカラーというのですが、この坊さんが、自分の本体を悟ったのです。
どのように悟ったかといいますと、自分の本体は、世間並の人間ではない、自分は空だと悟ったのです。般若心経の涅槃と同じ意味なのですが、空の自分を悟った後に、二つの内容があることを悟ったのです。
今ここに生きていること、考える力があることの、二つです。これを悟ったのです。今ここに生きているのは、無量寿如来です。考える力があることを、無量光如来というのです。無量寿如来は、命のことです。無量光如来は、知恵のことです。つまり、命と、知恵の二つが、自分の本体であることが、分ったのです。
今まで、自分だと思っていた、ダルマカラーという人間がいると思っていたことが、間違いだったのです。
自分の本体は、ダルマカラーという人間ではない。無量寿如来、無量光如来という、二つの如来さんが、自分の中にいることを悟った。これが、阿弥陀如来なのです。
この時、ダルマカラーという固有名詞は消えてしまっている。空になっているのです。空でない自分が、アミダーユス、アミダーバーなのです。アミダーユスとは、無量寿如来です。アミダーバーというのが、無量光如来です。この二つが、自分の本体だと悟った時に、自分の命が永遠のものであることを、悟ったのです。
阿弥陀ということが永遠ということです。阿とは、無です。弥陀とは、限りという意味で、阿弥陀とは、無限という意味です。阿弥陀如来とは、無限如来ということです。ここにも、般若心経の空が出ているのです。
だから、涅槃が分らなければ、ナムアミダブツという名号の意味が、分らないのです。その意味では、他力本願の阿弥陀経や、大無量寿経でさえも、実は、般若心経をしっかりふまえていることが、確認できるのです。念仏思想でさえも、そうなのです。
念仏思想というのは、イエスの御名を信じることと、同じことなのです。イエスの名というのは、エーズースーというアラミ語からきています。これは、神が救いそのものであるという意味になるのです。神が救いそのものであるとは、どういうことなのか。それを、神の御霊(みたま)によって教えられると、イエスの御名が分るのです。
イエスの御名がはっきりしなければ、とこしえの命は、分りません。これは、宗教では分らないのです。宗教では、イエスの御名を、はっきり言わないのです。欧米のキリスト教では、イエスの御名を受けることが、何のことか分らないのです。
人間が生きていることの実体は、イエスの御名なのです。無量寿如来、無量光如来の二つが、自分の中にあると考えた法蔵比丘の考え方と、ほとんど同じことです。少し違う所があります。無量寿如来、無量光如来は、人間の考えた概念なのです。ところがイエスの御名の場合は、神の存在によってきちっと裏づけされたものなのです。阿弥陀如来の方は、理論はあるが、裏づけがないのです。理論的には、非常に明快であるけれど、はっきりした歴史的な裏づけがないのです。
イエスを受けることは、非常に明確な実体があるのです。今、人が生かされていることが、実は、イエスの御名なのです。イエスの御名というのは、神が救いであることの実質を、具体的に点検することなのです。鼻から息を出し入れしていることが、神であって、これが、イエスの御名と関係があるのです。
御名ということは、父なる神の御名と、イエス・キリストの御名と、二つあるのです。この両方が、はっきり分る必要があります。この二つは、世界中のキリスト教が、全然分らないことなのです。
天にいます我らの父よ、ねがわくば御名をあがめさせたまえという、主の祈りがありますが(マタイによる福音書六章九節)、御名をあがめるとはどういうことなのか、キリスト教では分らないのです。まず、御名が分らないのです。その次に、あがめるということが分らないのです。主の祈りという重大なテーマが、分っていないのです。そこで、キリスト教は宗教であって、本当の真理とはいえないことになるのです。
魂の実体は、神と人が、一緒になって生きていることなのです。神と人間の魂が、一つになって生きている。これを、インマヌエルというのです。神と人が、同時に住んでいるのが、人の実体です。これが分りますと、神が分るのです。しかし、神が分っただけでは、本当の命が自分のものになっているとはいえないのです。
私達は、現世に、五十年、六十年間、生きています。長い人は、九十年、百年も生きています。だから、この世はよく分っているはずです。しかし、神が分ったからといって、すぐに神の全体が分ったとは言えないのです。
そこで、永遠の命を勉強しようと思えば、現世に生きているという事がらを通して、毎日、具体的に神を経験することが必要です。そうして、できるだけ多くの人に、この事実を伝えるのです。
神を見つけるためには、自分の命を捨てなければだめです。神とは、命なのです。心臓が動いていることが、神です。目が見えることが、神なのです。目が見えるという事実において、神の実体が現われているのです。これを捉えることです。これを捉えると、その人の考え方が変ってしまうのです。命が変ってしまうからです。

 

 

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