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神との対話


新約聖書に出ている本当の信仰といいますのは、上智の信仰です。普通の人間は、救われたいから神を信じるといって信じているのです。これでは宗教観念になるばかりなのです。それは上智ではないのです。
聖書には上智という言葉はありませんが、それにかわって、パウロという人が、ローマ人への手紙十二章二節で、「心をかえて新しくせよ」と言っているのです。心は英訳ではマインドになっていまして、これは、人間の精神のあり方を変えることを言っているのです。これが上智なのです。
精神のあり方を変えること、物事に対するイメージを変えること、思想的な感覚を全部かえて、新しく出なおせと言っているのです。
般若心経は、神を信じるということは書いていませんが、五蘊皆空と言っています。五蘊皆空というのは、心をかえるやり方のことを言っているのです。パウロはやり方を書いていません。ただ心をかえよと言っているのです。般若心経の方は、五蘊皆空だから人間の常識は一切だめだ、本当のことは分からないと言っているのです。
パウロは、心をかえてやりなおす気持ちになりなさい、そうすれば神とは何かということがはっきり分かる。神が全にして喜びであることが分かると言っているのです。
ところが、キリスト教では心をかえることをしないのです。ただ、キリストを信ぜよ、罪を犯したことをあやまれということだけをいっている。これは、心をかえることにはならないのです。
今までの自分の罪、科を謝罪したことにはなるでしょう。しかし、それでは精神を入れなおすことにはならないのです。そういう点がキリスト教では基本的に間違っているために、本当の神が分からないのです。
人間は、現在生きていながら命が分かっていません。これが現在の人間の致命的な欠陥です。人間は生活するために生まれてきたのではありません。生活はしなければならないのですが、まじめに働く気持ちがあれば、ご飯は食べられるにきまっているのです。
そこで私達は、現世に生きていることがらを通して、どうしても神という事実、神という真実をつかまえなければならないのです。
神とは、宗教で考えているようなものとは違います。衣冠束帯の神ではありません。人間の生理機能、心理機能、五感の本質が神です。また、今現在、皆様の心臓を動かしている力が神です。
人間が生きているのは、神と対話していることなのです。皆様方の生活の経験は、そのまま神と対話していることなのです。
寒い時は寒いように、暑い時は暑いように、食べるとか見るとかいうことは、神との対話になるのです。
皆様方の魂は、ものを言う魂なのです。魂は言葉を知っているのです。皆様方の魂が何かを感じるということは、しやべっていることになるのです。
空が青いことも、太陽が輝いていることも、皆神が語りかけていることになるのです。それに対して、魂は受け答えをしているのです。おいしいとか、美しいとか、暑いとか、涼しいとかを感じているのですが、これは知らずに神と対話をしていることなのです。これがはっきり分かれば、人間は死ななくてもすむのです。
それに気づかずに、般若ということが分からず、心をかえることが分からず、ただぼゃーと生きていれば、必ず死にます。
死ぬというのは、ただ肉体が朽ち果てるというだけではありません。皆様方の魂がわりきれない迷いを持ったままで死ねば、その迷いで苦しまなければならないことになるのです。これが地獄です。
現世で、神と対話をしていることを知らずに、魂の責任を果たさないでこの世を去れば、この世に生きていた時の税金を必ずとられます。苦しまなければならないことになるのです。これが地獄なのです。
現在、神と対話をしているという事実をわきまえないで、この世を去るのですから、必ず生きていた時の税金をとられます。ですから、生きているうちに、神という本当の真実を捉えて頂きたいと思います。
人間の魂は、機能です。心理機能の中心的な働きは、理性と良心です。理性と良心は、人間が持って生れた先天性のものです。
仏典に、本具の自性という言葉がありますが、これは、本来の自性という意味なのです。見る力の原理、食べる力の原理、いわゆる機能性の原点は、本具のものなのです。本来備わっているものなのです。これが、現在の人間の魂の本性になって、肉体的に現われているのです。
生きていることは、一つの結果です。結果論的なものがあれば、原因がなければならない。生れる前の人が、なければならないのです。
これは、輪廻転生ではありません。生れる前の人は、今の人間が意識することも、認識することもできませんし、人間として生れる前に、どこかにいたというのとは、違うのです。生まれる前、五百年前に、どこかの国にいたとか、人間は七回生まれ変わると言う人がいますが、こういう考え方は、宗教観念でつくりあげた思想なのです。
現在の命を、ていねいに扱わなければならない。現在の命を忘れて、命はどこにもないということを、承知する必要があるのです。
命が現世に生まれるのは、一度だけです。生れ変る必要はありません。輪廻転生は、宗教観念です。もう一度生れることができると考えますと、現世に対する認識が、どうしても軽くなってしまいます。もう一度生れるチャンスがあるとすれば、その時やればいいという無責任な人生観を持ってしまうのです。これが、輪廻転生という考え方なのです。
命が生まれるの、たった一度です。一度しかない。今生きていることが、真剣勝負なのです。これを軽く見ることは、宗教観念の悪さです。
聖書によりますと、魂は、生ける神の子になるのです。五官の本源になる情操、見る力、聞く力、味わう力、物を言う力の機能性は、自分の力で造ったものではありません。神からのものなのです。
いわゆる本具の自性なのです。神からのものは、本来死なないのが、あたりまえなのです。死ねないものなのです。そこで、今生きている生命状態を正しく認識しさえすれば、生ける神の子であることが分るのです。
イエスは、自分のことを、生ける神の子といっているのです。イエスと同じ人生観を持つことは、人間としてあたりまえなのです。そう考えない方がまちがっているのです。
素直に考えることが、できればいいのです。現在の文明意識に毒されないで、あるがままの自分を、あるがままに見ていこうという気持ちがあれば、自分が生きていないということぐらいは、誰でも分るのです。
イエスが、どんな気持ちで生きていたのかさえ分れば、彼が死を破った気持ちが、すぐ分るのです。魂が死ぬべきものではないことが、すぐ分るのです。
人間は、この世の知恵、知識に、騙されているのです。文明意識によって、束縛されているのです。例えば、人間は、自分が生きていると勝手に思っています。これがまちがっているのです。自分が生きていると思っている人は、必ず死にます。命を正しく捉えていないのですから、必ず死にます。死ぬだけではなくて、あとからが、恐ろしいのです。
人は、天然の命を預けられているのに、自由意志に従って、欲望主義によって人生をおくったとしますと、後から、高い税金がかかってきます。これが、こわいのです。これは、あたりまえの結果なのです。
人間は、自由意志に基づいて、衣食住を決める特権を与えられているのです。動物にはないような味の感覚、においの感覚、物を考える機能を与えられている。動物では考えられないような貴重な精神的な経験を、何十年もしているのです。これは、魂が、生ける神の子である証拠なのです。それを正確に認識しないと、それに対する税金がかかるのは当然なことです。
本来、魂は、死ぬべきものではありません。神の子だから、死なないのがあたりまえです。死んでしまうと思うのは、考え方が間違っているからです。
聖書に、肉の思いは死である。霊の思いは命であり、平安であるという言葉があります。
肉の思いとは、現在の人間が持っている自我意識、現象意識で考えることです。自分がいる、目に見える現象が実体であると思う意識です。霊の思いとは、人間が生かされている本質、森羅万象がある本質に基いて考えることです。
肉の思いから、霊の思いへ切り替えてしまえば、死ぬことから、決定的に逃れられるのです。死から命へ、引っ越しできるのです。そうすると、死なない命がはっきり経験できるのです。
 

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