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般若心経と聖書を一緒に学ぶ


普通宗教的に扱いますと、般若心経なら般若心経、聖書なら聖書と、どちらもー本立ちができるテーマですが、般若心経と聖書の両方を、一緒にとりあげるという考え方は、今までの日本にはなかったことです。
般若心経は、もちろん仏教の経典として扱われています。ところが、般若心経は仏教だけではなく宗派神道の勉強をしている人も、随分用いていらっしゃるようです。婦人会とか、青年団などの修養団体、社会教育団体の集まりでも、随分用いられています。
般若心経は、諸法空相といっていますし、無無明 亦無無明尽 乃至無老死亦 無老死尽と言っています。また、無苦集滅道といっています。
無明とか老死は、いわゆる十二因縁という仏教の唯識論の基本になっています。苦集滅道は、いわゆる四諦という教義をさしています。
般若心経の字句を綿密に読んでいきますと、自然に仏教の唯識論を否定していることになるのです。いわゆる小乗仏教の唯識思想といわれる、四諦八正道、十二因縁を否定しているのです。こういう点から考えますと、般若心経を仏教の経典と考えるのは、どうかと思われるのです。
お釈迦さんの思想の中心は、空です。空を達見されたということが、釈尊の基本思想になっています。
色々な経典を読んでいきますと、空がまず最初に書かれていて、それから色々な教えが説かれているのですが、結局、諸法空相という考えが、仏典の中心になっていまして、釈尊の考えをまとめてしまえば、般若心経という二百七十六文字の経典になってしまうのです。
般若心経は、仏教の唯識論を否定していますが、仏教の中心思想である空が重点になっていますから、仏法の中心であるといえるのです。
ところが、仏法は仏教とは違うのです。仏というのは悟ること、又悟りを開いた偉い人をいうのです。つまり仏陀の法を悟ること、般若ハラミタという形で、現世をのりこえて悟りを開くこと、又開いた人のことを、仏といいます。
日本の各仏教には、ご開山がありまして、ご開山が色々と教えをのべています。その教えに基づいて、真宗とか、浄土宗とか、真言宗、日蓮宗、曹洞宗、禅宗ができています。それぞれのご開山の教えによって、日本の仏教ができているのです。これは仏法とは違うのです。
般若心経に、究竟涅槃いう言葉があります。遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃が、般若心経の目的になっていますが、遠離一切顚倒夢想というのは、人間の色々な思想は逆立ちしている。あるものをないもののように考えている。ないものをあるもののように考えている。これが顚倒夢想である。そういう見方を、遠離してしまう。その結果涅槃をつきとめる。これが般若心経の目的です。
般若ハラミタは、究竟涅槃というようにもとれるのです。仏を信じるとか、極楽へ行くとか、この世で幸せになるという字は、一つもありません。従って、いわゆる日本の仏教のように極楽往生するとか、現世で幸いな生活になるとか、国が立派になるとかいう考えは、般若心経にはありません。
究竟涅槃と言っていることが、人間が幸福になることだという解釈もできないことはないのですが、般若心経の二百七十六文字を読んだだけで考えますと、現世で幸いになるとか、死んでから極楽へ行くという思想はないのです。
般若心経を、仏教の経典として取り扱うことが、間違っているのです。般若心経は本願寺では用いませんが、天台宗でも真言宗でも、禅宗でも、用いています。般若心経を用いているといっても、中心になって説かれているというのではなくて、刺身のつまみたいに
扱われているのです。長いお経を読んだついでに、ちょっと般若心経を読むというように扱われているのです。
ですから、般若心経は、日本の仏教の経典であるかどうか、分からない点があるのです。しかし、釈尊の悟りの中心になっているのは間違いないのです。
そこで、般若心経が仏教の本当の思想であるとすると、他の仏教が間違っていることになる。どうも、宗教信者、宗教学者の人々でも、般若心経の位置づけは、大変難しいことになっているのです。
ところが、宗教を離れて、人間が生きているという赤裸々な姿で考えますと、般若心経は大変結構なものになるです。
人間が生きているのは、空なのです。何のために生きているのか分からない。何のために自分が生れてきたのか分からない。死んでから極楽へ行くといっても、どうなるかはっきり分からないのです。
般若心経は、現在生きている人間の生き方について、非常に重要な提言をしているのです。人間が現在生きている姿が、そのまま空である。根本から空である。生きていても、死ぬしかしかたがないからです。
無眼耳鼻舌身意、無色聾香味解法、無眼界乃至無意識界といっていますから、人間が見ている世界も、生きている世界も、一切無いと言っているのです。そうすると、人間が生きていることが、何のためか、さっぱり分からないことになるのです。般若心経は、結論があるようでないのです。
現在生きている人間を否定すれば、現在生きている事柄をどのように考えればいいか。これについて、般若心経は、何も言っていないのです。ただ、般若ハラミタはけっこうだ。是大神児、是無等等兄、能除一切苦といっている。一番すばらしい経典である。一切の苦しみはなくなるのだ。掲帝掲帝、般羅掲帝、もっとやれ、もっとやれ、頑張ってしっかりやれと励ましているのです。
頑張ってやれといって、何をすればいいのか、般若心経の字句を見ただけでは分からないのです。現在生きている人間は、確かに、空です。何のために生きているのか。命とは一体何か分からない状態で生きていることが、無意味なことになるのです。食って寝て、食って寝て、子供を産んで、結局死んでしまうのです。
一人ひとりの人間が死んでしまうだけではなくて、人間社会も自滅してしまうのです。世界の人類がどこへ行くか、さっぱり見当がつかないのであって、人間文明が消えてしまうことが必ずあるのです。
遅かれ早かれ、人間歴史は空になってしまうのです。諸法空相が、そのまま人間歴史にあてはめられることになるに、きまっているのです。
限られた地球の面積に、人間がやたらに増加していくのですから、五十年後には、人口が現在の三倍位になるでしょう。そうなると、食糧はどうなるのか。エネルギーはどうなるのか。鉱物資源はどうするのかという大問題が生じてくる。食べることを考えても、五百年も千年も、ましてや、一万年も、二万年も、人類が存続することは不可能なのです。
そのように考えますと、般若心経は大した見方をしていると言わなければならないのです。
果たして人間は、空だと言ってすましておけるのでしょうか。般若心経は、この世に生れてきた人間は空だと言っていますけれど、空だと言ってすましておけないことになるのです。なにか絶対的なものに頼らなければならないのが、人間なのです。
人間の魂は、何かを発見して、何かを頼りにして生きていかなければ、生きておれないのです。般若心経の空という言い方に対して、心から同意できるのでしょうか。できないとすると、何を頼りにして生きているのでしょうか。
そこで、神が問題になるのです。人間が空であるということと、神とどういう関係になるかということです。
この神とは、キリスト教の言う神ではありません。キリスト教が言っている神は、宗教の神なのです。これは本当の神ではありません。
キリスト教では、聖書が正しく説かれていないのです。正しく説いているつもりかもしれませんが、宗教の教義は、人間がつくつたものです。長年の伝統に基づいて、キリストを説いているのであって、これは聖書そのものではありません。
仏教もそのとおりです。本当の仏法は、日本にはありません。仏といっても、釈尊が言われた仏ではないのです。
そこで私達は、宗教ではない本当の悟りとしての、人間が空であるという意味での般若心経の勉強と、宗教ではない聖書の勉強と、両方を勉強する必要があるのです。宗教を離れて、命の実体を見なければならないのです。
涅槃、空というだけでは、さっぱり先が見えない。そこで、人間が空であるとして、空である人間が、何を頼って生きるべきかということになりますと、神しかないのです。
人間の命の実体は神なのです。地球が自転、公転していること、心臓が動いていることが、神なのです。これを信じなければ、信じるものはないのです。
般若心経によって空を信じても、私達が生きているという事実があります。この生きているという事実が神であるとしますと、空を悟った上に、神の実体をつかまえて、命を明白に捉える必要があるのです。
文明の中から、死を追い出してしまうのです。死なない命をしっかり持つという勇気を持って、もう一度人生を見直すために、宗教ではない般若心経と聖書を勉強する必要があるのです。
 

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