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背任横領


キリスト教では、贖罪論といいます。罪の贖いとはどういうことかといいますと、例えば奴隷が買いとられた場合に、その代金を贖いといっています。最初に奴隷を買う場合には、贖いとはいいませんが、二回目に奴隷を買い戻して自由にする場合に、贖いというのです。
現在の日本社会では、罪が分からないのです。皆様が現在、肉体的に生きていらっしゃいますが、肉体は自分の物だと無意識にお考えになっています。わざわざそのようにお考えになろうと意識していらっしゃるのではありませんが、世間一般の通念として、自分の肉体は自分の物だという気持ちが、染み込んでいるのです。
人間は、自分が生きていると考えています。神と人との全体的な関係でいいますと、人間は自分が生れたいと思わないのに、生れて来ました。生れたいと思わないのに、なぜ生れて来たのか。人間がどうして発生したのか。これをお考えいただかなければならないのです。そのためには、個から全の方へ考え方を変えていただかなければなりませんが、これが日本人には非常に苦手なのです。
これを明治憲法の国家主義的な考えでいいますと、国民は天皇陛下の赤子である。だから、個人としての自分の意志よりも、天皇陛下の御心に従うことこそ当然である。いわゆる全体主義になるのです。これを軍閥がうまく利用したのです。
個人は存在しない。国がある。天皇陛下の赤子としての国民があるけれど、個人は存在しない。これが日本帝国の考え方なのでした。国家主義の考えでいえば当然ですけれど、人類全体から考えますと、個々の人間が存在するのではなくて、人類という全体が存在するという考えに置き換えて考えていただく必要があるのです。
今では、国のために生きると考える必要はありませんが、全人類の一員として私達がいるということは、否定のしようがないのです。そうしますと、自分一人の個人的な考えよりも、全人類的な考えの方が、重要になるのです。
現在の学問は、法律学とか、医学とか、自然科学、経済学、教育学でも、専門学であってそういうものが何百とあるのです。これは皆部分的な学なのです。
専門学というと聞こえがいのですが、はっきりいえば部分学なのです。全体学は一つもありません。専門学全体を統括するような、本当の意味での全体学がありません。これが学問を行きづまらせている原因なのです。
部分的な人間は存在しないのです。人間が生きているというのは、全体的に生きているのです。68億の人間の一人として生きています。ところが学問は、68億全体に通じるような、根本的な基本学はありません。そのように、学問を専門化した人、部分化してしまったのが、ユダヤ人学者なのです。
専門学といわれると、いかにも上等に聞こえますが、政治だけの人間はいません。経済だけの人間もいない。科学だけの人間もいないのです。従って、政治学をいくら学んでも、人間全体を知ることはできないのです。自然科学をいくら勉強しても、人間全体のことは分からないのです。従って、人間の罪が分からないのです。文明意識が強ければ強いほど、分からないのです。
人間は自分の命があると考えています。これは非常に不合理な考えです。自分で生れた人はいないのです。仮に、自分が生れたとしましても、自分の命を伸ばすことはできません。縮めることはできます。自分の命を自分で縮めることは、最も大きい罪なのです。
命は自分で自由になるものではありません。聖書に、思いわずらって、身長を伸ばすことができるかと皮肉ないい方をしているのです。自分で心配した所で、自分の身長が高くなるものではない。髪の毛一本も、自分で造ることはできないのです。
ところが人間は、命は自分の物だという観念を、固く信じているのです。これが罪なのです。正しくないことを正しいように考えていることが罪なのです。
罪とは錯覚をいうのです。罪の語源は、見当違いです。見当はずれのことをいうのです。これは錯覚を意味するのです。命は自分の物だとか、自分が生きていると考えることは、錯覚です。これが罪です。
これを改めるためには、個人的に生きているという意識から、全体的に生きているという考えを持つようになさいますと、皆様の精神構造の基礎が、個から全に変わって行くのです。そうすると、罪の意味が分かるのです。
人間は無意識に、命は自分の物だと思い込んでいます。ところが、人間の命は天の物であって、天から預けられたものなのです。皆様は預かった覚えはないかも知れませんが、実際、命を自分で造ることはできないのです。自分で自分の都合のいい命を造りあげることはできないのです。
そうすると、命は純粋に他動的な物、他律的な物になります。命は自分の物ではないにもかかわらず、自分の物と思い込んでいます。これは預けられた命を、黙って横領していることになるのです。背任横領をしているのです。
例えば、株主総会で社長を委任された人が、その会社を自分の物だと考えてしまいますと、背任横領になります。預けられた物を、自分の所有物だと考えますと、背任になります。
人間の錯覚は、それを意味するのです。これは一個人の問題ではない。民族の問題でもない。全世界の問題になるのです。68億の人間が、全部考え違いをしてしまっている。これを何とかしなければならないという責任が、神の方にあるということを、新約聖書は考えています。
神が人間を造って、人間を生かしているのだから、人間に正確な認識を与えるのは、神の責任なのです。こういういい方を聖書はしていませんが、こういう思想が聖書の基本になっているのです。そこで罪の贖いという問題が起きてくるのです。
神の元へ人が帰るためには、自分の命は自分の物だという認識を持ったままではだめなのです。神の元へ帰りますと、皆様の命は完全無欠な形になって復元されることになるのです。
命の復元が、イエスの復活によってなされたのです。イエスが復活したということを勉強すれば、命の復元ということが分かるのです。
今皆様は、命は自分の物だと考えて生きておいでになります。これが罪です。この考えをお止めになれば、命は神からの預かり物であるという認識に到達できることになります。
そうすると、命の本質が復元することになるのです。
イエスの復活を皆様が、ご勉強なされば、いいのです。命が自分の物ではないことが分かったら、命の主体性、主権を、神にお返しするようになります。そうすると、皆様は死なない命が分かることになります。
これを新約聖書では、新しく生れるといいますが、その場合でも、非常に大きい差し支えになるのが、原罪なのです。今まで自分が生きていると思っていた。だから自分の命は自分の物だと考えて、自分がしたい放題の生活をしていた。これをどうするかが大きな問題になるのです。
自分が生きていれば、必ず死にます。死なない命を見つけるためには、神の元へ帰らなければならないのです。
新約聖書に、「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰する」とあります(ローマ人への手紙11・36)。神に帰するというのは、神の元へ帰るという意味です。神から出て、神によって生きていて、神の元へ帰る。これが人間の命の全体論です。
ところが、日本人の大多数は、この世に生きていることだけが自分だと考えています。この世に生きていることは、人間の命全体から考えても、非常に重大な意味を持っていますけれども、この世に生きていることだけが命ではないことを、ご理解いただきたいのです。
魂は生れて来たのです。どこかから来たのです。死んで行くというのは、どこかへ行くのです。皆様の魂は人間ではありません。人間は死んでしまえばそれで終りです。しかし魂は終らないのです。
皆様の人格の本体は、魂なのです。本心は魂なのです。仏教ではこれを本願といっていますが、人間の本心、本願は、人間自身の考えとは違います。人間と魂は、全く他人なのです。
魂とは何かを簡単にいいますと、理性と良心が肉体的に生きていることを、魂というのです。理性と良心の本体は何かといいますと、これが神の言(ことば)なのです。神自身といってもいいのです。神自身の分身のようなものが、魂なのです。
神といっても、日本の神とは違います。日本の神は人間が造ったものですが、本当の神は、地球を地球としているもの、皆様の命を命としているものが、本当の神です。
命の本源が、肉体的に表れた状態を、魂といいます。魂は、無形のものではなくて、有形的なものです。肉体的に生きていなければ、魂とはいえないのです。これを普通の人は知らないのです。
自分は魂だと思わずに、人間だと思っています。これが罪なのです。人間だと思い込んでいたために、自分の権利をふり回して、したいことをして生きて来た。三十年生きて来た。四十年生きて来たということが、罪を犯して来たことなのです。
魂を自覚しないで、命は自分のものだという意識で生きていることが、立派な犯罪行為になるのです。これを、皆様の理性や良心は知っているのです。
従って、自分の人生はこのままではいけない、どうも危ないという気持ちがあるのです。死んだらどうなるのか、死後の世界は何だろかということが、絶えず皆様の意識の底にあるのです。
皆様は、はっきり命を捉えておいでにならない。命の本源を捉えていらっしゃらないために、生活に色々な心配ごとがあるのです。色々な悲しみがあるのです。苦しみや、思い違いがあります。やりそこないがあるのです。
人生の負担が色々な形で皆様にのしかかっているのです。お金が儲かれば苦労がありますし、なければ又苦労があるのです。
なぜ人間に苦労がついて回るかと言いますと、死なねばならないからです。死の恐怖があるために、様々な苦しみがたえずつきまとっているのです。
人間は死の恐怖から逃れたいと思っても、逃れることはできません。なぜなら、命の本体を捉えなでいままで生きておいでになるからです。ここに、人間の非常に大きい罪があるのです。
罪とは、命は自分のものだという錯覚なのです。例えば、五十歳の人は、五十年間そのような錯覚をし続けてきたのです。五十年間、命を盗んで生きてきたという事実があるのです。この犯罪行為から、どうすれば離脱することができるかということです。
間違えて五十年生きてきたのですが、もう一度やり直すことはできません。この場合、罪の償いがどうしても必要なのですが、罪を償う方法がないのです。自分の考え違いを自分で償おうとしても、絶対に不可能です。
そこで、罪の贖いということが、どうしても必要になるのです。神が人間の尻拭いをしてやろうということが、新約聖書の原理になっているのです。
天地を造ったのは神です。人間を造ったのは神です。人間をそのような犯罪状態に置かねばならない原因ができたのは、神の責任なのです。だからその尻拭いを神がしようというのです。
人間は、どうして命が自分のものだという考え違いを持ち始めたのか。これは哲学では絶対に説明ができません。仏教でも分かりません。大乗経典をどのくらいひもといても、自我意識がどうしてできたのか、説明ができないのです。
自我は、実は存在していないのです。存在していないものを、存在しているように考えたのが、間違いの原因です。
例えば、釈尊が生老病死という四つの苦しみを解決しようと思ったのは、自分が生きていると思ったからです。親鸞も往生しています。自分の性欲に困り果てたのです。自分が生きていると思ったからです。
人間は、命は自分のものだと考えるから、人生に色々な矛盾があるのです。その矛盾を自分で解決することは、絶対にできません。そこで、天に任せなければしょうがないのです。
天に任せなければしょうがないと、はっきり思えるかどうかです。そんなことはしてほしくない。自分の罪は自分で解決するから、ほっといてくれと言われれば、何をか言わんやです。
天理教では、自分の持ち物を全部捧げてしまえと言います。商売も、家庭も、家も、全部捧げよ、自分のものだと考えるから、悪因緑に捉われると言うのです。この世で因縁を否定すれば、この世を去っても又生れてくるというのです。人間は七回生れると言うのです。これは全くのインチキです。
人間は過去の過ちを償う能力がありません。これから先、二十年、三十年生きていたとして、将来悪いことをしないとしても、昨日まで自分が生きてきたという罪歴があります。これをどうするかということです。
昨日までの借金をどうするかということです。これは誰かに払ってもらわなければしょうがないのです。人間ではできないことですから、神に払ってもらわなければしかたがないのです。そうするしか方法がないのです。
人間の罪を決定するのは、神なのです。人間は自分の罪を許すことはできませんし、決定することもできません。人生は自分のものではないからです。神の処置を受け取るしか方法がないのです。これが十字架の贖いなのです。
キリストとはどういう人かといいますと、神の地球計画でありまして、神はどういう目的で地球を造ったのかということです。万物の長として、人間を最終段階で造ったのです。万物を治めさせるのが目的なのです。
なぜ人間に万物を治めさせようとしているのかというと、天使長である悪魔が、神に反逆したからです。万物を任されていた天使長が、自分の能力が自分のものであると錯覚した。自分の立場、自分の考えがあると錯覚した。「自分」がいるという発想が、死なのですが、この死の法則が宇宙に発生したのです。死が存在することが、悪魔を最も明らかに説明しているのです。
人間が死ななくなるということは、悪魔の壁を突破しなければならないということなのです。これをキリストの十字架が解決したのです。
困ったことに、日本人はキリストに対してアレルギー感情を持っているのです。聖書に対して相当警戒しているのです。
日本は封建時代に士農工商という四つの段階がありまして、これを守るために、各村の寺を現在の市役所のように使ったのです。人別帳を寺の権限にしたのです。これはキリシタンバテレンを守る方法でもあったのです。
寺はただの宗教ではなくて、行政機構だった。現在の駐在所のように、にらみがきいたのです。そういうものが仏教だったのです。仏教の坊さんは、キリストが根本的に嫌いなのです。恐るべき商売がたきなのです。
日本人は無意識にキリスト嫌いになっています。だからキリストという言葉を聞いただけでも、キリスト教のように思えるのです。ところが、キリストはキリスト教でないのです。聖書は宗教を厳しく否定しているのです。
キリスト教は世界の宗教の中で、最も悪いものです。キリストの名において、神に反抗しているからです。キリスト教で考えている贖罪論は、真っ赤な嘘です。十字架の説き方が間違っているのです。
本当の十字架を申し上げますと、皆様が現在生きておいでになるのは、皆様の命ではなくて、実は、イエスが復活した命が、皆様に今働いているのです。
キリストの復活の命が自分の命だということが、日本人には全く分からない。とても受けつけられないのです。受けつけられなければ、常識をお信じになって死んでいけばいいでしょう。
ところが、常識が記憶になってこの世を去りますと、大変なことになります。皆様の霊魂は、常識ぐらいで解決できるものではありません。霊魂がこの世を去っていきますと、現世の常識は一切役に立ちません。キリスト教を信じても、その信心は一切役に立ちません。そこで現世のあらゆる宗教は、この世を去ってしまいますと、全部嘘になるのです。
キリストは人間の代表者です。地球計画における人間の全体的な代表者なのです。日本人は絶対という言葉が嫌いなのです。絶対とは何かといいますと、全体ということです。部分的な学問はありますが、全体的な学問はありません。これが文明の弱点なのです。
現代の文明はユダヤ人が造った文明であって、絶対的な文明ではないのです。今の世界には絶対はありません。これが文明の欠陥です。
現代文明は、虚妄の文明です。絶対がないからです。世界全体が考えられないような学問をしているのです。このような字間を、現世に流しているのがユダヤ人学者なのです。
キリストは、全人類全体のポイントなのです。キリストを知るためには、どうしても神のキリスト計画を知らなければならないのです。
キリストは、ザ・キング・オブ・キングスなのです。王達の王です。これは絶対を意味するのです。この人が十字架につけられ、これによって全世界の罪が消えてしまった。神がそうしたのです。この神の処置を信じるしかないのです。
キリストが死んだことによって、皆様の過去の犯罪行為は全部消えてしまった。そこで、イエスが復活したとはどういうことかを、勉強しなければならないのです。
日本人はどうも生れ性が良くないのです。日本の霊があるからです。荒神さんの霊とか、竜神さんの霊、神霊科学の霊があるのです。新興宗教の霊媒的な霊が、日本の国柄にからみついているのです。本当の霊は、皆様の命なのです。皆様の心臓が動いていることが、霊なのです。これが日本人にはなかなか分からないのです。
肉体的に生きているという意識を脱ぎ捨てることは、非常に困難なのです。そのかわりに、これをしたら大変得をします。
日本は因縁が良くない国だから、本当のことが分かれば、すばらしいことが発見できるのです。
実は、天皇制を持った日本の国体は、すばらしいものです。これを専門家の人々も知らないのです。これは恐るべき国体なのです。それがなかなか分からないのです。
日本は国柄と人柄が違いすぎているのです。国柄は上等すぎます。人柄が悪すぎるのです。日本人にはユダヤ人の欠点と同じものがあるのです。この欠点が分からないから、良い点が分からないのです。だから、日本人にキリストを説くことは、難事中の難事なのです。ほとんど不可能に近いことでしょう。本当の命、神の命を百万遍中し上げても、なかなかお分かり頂けないでしょう。
皆様は、今の人生を何十年続けても、何もならないのです。何もならない所か、ますます罪を深くするだけです。人間が現世に生きていることが、無意味なのです。
人間は死ぬに決まっています。だから、何かを信じなければ生きられないのです。皆様に、命の実体をお話ししたいのです。皆様の命の実体がキリストなのです。これは日本人にはほとんど分からないでしょう。それほど難しいのです。
皆様は現在、キリストの命を持っているのです。キリストが分かれば、皆分かるのです。あらゆる行きづまり、矛盾は、全部消えるでしょう。夫婦間の矛盾、家庭内の矛盾、職場内の矛盾、政治、経済、社会の中のあらゆる矛盾は、全部解消されるのです。
 

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