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輪廻転生は嘘


宗派神道のある有名な教団では、人間は七回生まれるといいます。もし、七回生まれるなら、今何回目かと聞いても、分からないというのです。
七回生まれるというのは、インドの釈尊以前のバラモンの思想で言っていることであって、仏教には輪廻転生という思想はないのです。全然ないというわけではないのです。例えば、ある人は、釈尊がこの世に生まれる前にいたという人がいますけれど、これは、正統派の仏教ではないのです。
人間が何回も生まれてくるという考え方は、端的に言いますと、ふまじめな、ふしだらな考えなのです。
もし、もう一回生まれる機会があると考えますと、現世ではせいぜい飲んで、食ってやろうかということになるのです。これがいけないのです。
現在の命が、本当に尊いもの、一回だけというように責任を持とうとしなければ、まじめに命を勉強しようとは思わないのです。だから、輪廻転生という考え方は、非常に間違っているのです。
とんでもないことを言う人があります。二千年前に、ギリシャにいたといって、ギリシャ語みたいなことを言うのです。これは一種のシャーマニズムです。心霊科学の一種であって、そういうものが働きますと、いわゆる霊がおりるという現象になるのです。そうして、今まで知らないようなことをしゃべる。うわごとみたいなことをいうのです。
聖書に、異言という言い方で出てきますが、そういうことは邪道でありまして、言ってはいけないのです。もし、異言で話をするなら、人に分かるように、まともな言葉で話しなさいと、パウロはいっているのです。
自分でも分からないことをべらべらしゃべること自体が、甚だ不謹慎な態度でありまして、人間が生まれかわるということが、だらしがない、不まじめな考え方になるのです。
現在生きている命が、一回だけだとまじめに考えなければ、本当の命の勉強はできませんから、転生輪廻という考え方は、大反対です。とんでもない、間違った考えだと言わなければなりません。神にかたどりてつくられた魂を持っていながら、神のように、聡明に考えることができないのです。
これは、人間の霊魂の姿が、本当の力をまだ発拝していないことになるのです。
人の霊魂の力は、現在の人間が考えていることの、何万倍もすばらしいものなのです。霊魂の可能性は、無限なのです。
例えば、イエスは、風を叱ったり、波を叱ったりしました。このくらいのことができて、あたりまえなのです。
神にかたどりて造られているのであって、一人の人格の中に、68億の人間性が、全部入っているのです。イエスは、そう考えていたのです。自分一人が十字架にかかることが、全人類が十字架にかかることだということを知っていたのです。これは、大変なことです。これをキリスト意識というのです。全人類を代表する意識なのです。
これは、阿弥陀如来にもあるのです。だから、大無量寿経と新約聖書は、よく似た所があるのです。
とにかく、神の約束がはっきり言われているのは、聖書だけです。仏典には、神の約束がありません。ですから、なぜ人間が造られたかという原理が、仏法では分からないのです。なぜ地球が存在するかも、説明できません。
仏典は、人間の霊魂の状態を、如来といったり、菩薩といったり、色々な形で、抽象的に人格を表現していますが、本当の歴史的事実の人格存在を、はっきり捉えていないのです。聖書は、人間の歴史的存在を、つかまえているのです。どこの国の誰ということを、はっきりつかまえているのです。この点が、仏法と聖書の違いなのです。
聖書の特徴は、神が地球を造ったのは、はっきりした目的があるといっているのです。海の魚と、空の鳥と、家畜と地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせるという、はっきりした目的があったのです(創世記一・二十六)。
人間は、万物を治めるために、この地上に生まれてきた。しかし、現在の人間は、万物を治めるほどの力を持っていません。これは、未完成の人間であることを意味するのです。
従って、現在の自分の状態を、本当の自分だと考えるのを、やめて頂きたいのです。仮の自分だからです。
自分が生きているという、いやな考えを捨ててしまいますと、本当の自分がだんだんと分かってくるのです。
これをもう少し申し上げますと、自我は、神と同じような性質を持っているのです。自分が生きているという考えは、神だけができるのです。神は、自ら存在しうるものです。自分の意志で、自分の力で、自分自身を存在させることができるのです。
自我は、自分の意志で、自分の力で、自分自身を存在させることができないのです。そのくせ、自分が生きていると考えるのです。これが、神のようになっているということなのです。
人間は、自分が生きていると考えている。自分が生きていると考えると、善悪利害を、自分の立場で判断するようになります。自分には都合がいいが、客観的には間違っているという、片手落ちの判断をするにきまっているのです。これが神のごとくなったということです。
人間は、業を背負いこむことによって、罪を押しつけられたのです。これは人間の原罪によるのです。原罪とは、先祖代々の罪です。この世に生まれたことは、業ですが、これは原罪を押しつけられたことになるのです。
嘘を言いたくなくても、知らない間に、嘘を言っているのです。いばりたくなくても、勝手にいばっているのです。自惚れという妙なことをするのです。うぬに惚れるというのは、人間だけの芸当です。これが、原罪の仕業なのです。原罪のかたまりが、自我になって現れているのです。
本当の神に対抗する、神様ができているのです。私という神様です。私という人格は、神に対抗する人格なのです。これが間違っているのです。これが人間を不幸にしている根本原因なのです。
結局、死にたくないのに死なねばならない原因は何かといいますと、自我なのです。自我が、人間を死にひっぱっていくのです。
そこで、自我から離脱するためにはどうするかということです。それは、自分でない、もう一人の人格を見つけることです。自我は本物ではない、イエスが本当の人格だということが分かると、自分のあくがぬけるのです。
イエスとは何かといいますと、言(ことば)が肉体的に現れた状態です。言は、人の命の本体なのです。魂の本体です。魂の本体が、肉体となって現れているのです。この状態を、イエスと言うのです。
イエスとは、人が生きている姿が、そのまま救いになるという意味なのです。生きているのは、神が生かしているのであって、神が生かしていることが、そのまま救いになるという意味なのです。
実は、固有名詞の自分が生きているのではないのです。ところが、固有名詞で生きていると思うと、正しく生きようと思っても、自我が悪い方へ、勝手にひっぱっていくのです。これは、原罪のせいであって、その人自身のせいではないのです。こういう間違いの原因は、原罪を背負っている自分を自分だと思っているからです。
これをやめるのです。どうしたらやめられるかというと、人間の本体はイエスだということに気がつくことです。
イエスとは、客観的に生きている人格です。目が見えること、耳が聞こえることが、イエスという意味なのです。イエスとは、人間の五官が働いている状態を言うのです。
そこで、私の主、あるじは、イエスであると考えるのです。主イエスを言い現わすとは、このことなのです。私の主人がイエスなのです。これを主イエスというのです。
聖書は宗教ではありません。命そのものなのです。命とは何か。イエスが命なのです。これは、仏教信者でも、共産主義者でも関係がないのです。本当の人間は、イエスしかいないのです。
五官がこれを証明しているのです。目の働き、耳の働き、舌の働きは、そのままイエスを現しているのです。
実は、死を破ったイエスが、人間の本当の命なのです。
イエスが死を破ったことは、宇宙にたった一つしかない大原理、大原則であって、これしか命をつかまえる方法はないのです。
そこで、本当に自我から脱出したいと思ったら、命は自分のものではないことを、まず悟ることです。
現在生きているのは、修養中の人間であって、まだ完成していないのです。学校へ行っている途中みたいなものであって、卒業していないのです。
卒業するとどうなるか。イエスと同じになるのです。死をのりこえてしまうのです。死なない人間になるのです。これが、人間完成なのです。
今の地球は、未完成です。今の地球が完全なもののように、今の日本人は考えていますが、これが間違っているのです。地震が起きたり、台風が発生する地球は、完全な地球ではないのです。砂漠があり飢餓がある。未完成の地球に、未完成の人間が住んでいる。現在の地球が本物だと考えることが、間違っているのです。
だから、文明は、錯覚のかたまりです。人間が勝手に、独りよがりの理屈で、人類の進歩と調和といっている。考え方が甘すぎるのです。
やがて、完壁無類の世界が現れます。本当の世界、永遠の平和という世界が、必ず現れます。イエスの復活たよって、新しい肉体が発生しているのです。今の人間の肉体は、物理的に非常に不完全であって、呼吸機能、消化機能が、いつ故障するか分からないのです。
ところが、イエスが復活した時に、40日の間、この地球にいたのです。その時イエスは、今私達が持っている肉体ではない、完全無欠の肉体を持っていたのです。そして、焼き魚を食べたのです。どうして食べたのか。幽霊が魚を食べたのか。御伽噺や小説は別として、このことを、新約聖書に堂々と書いているのです。
 全世界に公認されている新約聖書に、復活後のイエスが、焼き魚を食べたと、はっきり書いているのです。
そうすると、その時のイエスの胃袋は、どんなものであったのか。果たして、現代の医学は、これをどのように解明できるのでしようか。
これを考えますと、現在の学問は、レベルが低いと言えるのです。医学だけではありません。科学も、哲学も、政治も、法律学、経済学も、非常にレベルが低いのです。こんなものは、本当の文明ではないのです。そのように、理想は高遠にという角度で、人の霊魂の実体は、どれくらいの値打ちがあるかを、知る必要があるのです。
今の人間は、ほんの小手調べに造られたもので、こんなものを自分の正体だと思う必要はありません。このように、本当の命を勉強しますと、全世界の完成というすばらしい問題が分かるのです。これが、本当の輪廻転生です。もつと上等の世界があるということです。
現在、死んでいる人間は、黄泉(よみ)にいますが、やがて、全部復活するのです。そして、恵みを受ける者と、刑罰を受ける者とが、区別されるのです。これは厳粛な事です。
歴史上、人間として地球上に生まれた人は、約七百億人ぐらいになるでしよう。これが全部甦るのです。甦って、霊魂の大審判が執行されます。この審判をする人が、イエスなのです。
こういうわけでありまして、現世に生きているのは、ほんの小手調べをしているだけなのです。本当の世界は、これから現れるのです。
非常に大きい意味で、人間はもう一度産まれるのです。死んだ人間が、甦るのです。これが輪廻転生ということです。

 

 

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