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人間は1人しかいない

 

まず第一に、西洋的、東洋的という考え方をやめて頂きたい。人間の命は一つしかないのです。黒人でも、白人でも、東洋人でも、砂糖をなめれば、皆甘く感じるのです。塩は辛く感じるにきまっているのです。
ヨーロッパ各国の言葉でも、日本語に翻訳できますし、日本語から、チベット語、アフリカ各国の言葉に翻訳できるのです。つまり、命は一つなのです。だから、黒人と白人とが結婚できるのです。日本人とエスキモーの人でも結婚できるのです。
人種に差別にあるような考えは、人間が造った思想であって、日本の歴史は日本人が造った思想なのです。ただの思想であって、それを日本人が信じなければならないということがおかしいのです。
日本の歴史よりもっと大きいものがあるのです。世界の歴史です。世界の歴史をはっきりわきまえた上で、日本を考えることはいいのですけれど、日本を考えることを第一にして、世界の歴史を後まわしにしますと、国家思想になってしまいます。
そういう思想ではなくて、人間は生きているのであって、生きていること、英語でいうザ・リビング(the living)は、一つしかないのです。ザ・リビングが、霊魂の実体、本体なのです。
花を見て美しいと思うことは、リビングの働きなのです。リビングがソール(soul)、霊魂のことなのです。リビングソールとは、生きている魂ということになるのです。
生きていることが、魂そのものです。だから、生きていることを勉強すれば、死なない命を発見することが、できるのです。難しくないのです。
宗教を信じるからいけないのです。哲学を勉強するからいけないのです。哲学は、死んでしまった人間が造った、ただの理屈です。例えばカントは死んでしまった人間であって、死んでしまった人間の理屈をいくら勉強しても、何もならないのです。
カントの理性批判は非常におそまつな理性批判であって、彼は本当の理性を知らなかったのです。
学者は実に不勉強です。西洋の学者だけではありませんが、日本の学者でも、自分の専門に関しては立派なことを言いますけれど、それは部分的な学であって、それをいくら勉強しても全体的な命は絶対に分かりません。リビングは全体なのです。全体を人は持っているのです。だからリビングという事実を勉強すればよいのです。
私達の心臓が止まることは、死ぬことにはならないのです。ただ生きている形式が変わることなのです。有形的な形で生きていたものが、無形の形で生きるのです。ただそれだけのことであって、生きている間に命を見つければ、自分が死なないことがよく分かるのです。イエスがその実例なのです。
現に私達は、太陽光線を感じています。太陽光線の明るさを直感していることが、リビングソールの機能なのです。
太陽光線は、天然自然の命が、そのまま現れているのであって、太陽光線の本質が分かれば、死ななくなるのです。
太陽光線の本質を、分かってもだめなのです。自分が現在生きているという事がらを通して、命の実体をつかむのです。そのためには、死んだ人間の言い残したことを勉強してもだめです。
例えば、空海でも、最澄、親鸞、日蓮でも、皆死んでしまったのです。死んでしまった理由は、本当の命が分からなかったからなのです。
イエスは大工の青年であって、宗教家ではなかったのです。本当の命を本当の形で、極めて素朴に命を表現するために生まれてきたことを、聖書に書いているのです。
聖書に書いていることがなぜ信用できるかというと、聖書には世界歴史の流れの根源がでているからです。万物が造られたことが、書いてあります。万物の創造を、聖書以外に説明しているものは、何もありません。万物の創造は、聖書以外には分からないのです。
イエスは、十字架によって、一度死んだのですが、死ぬべき命ではないことが、宇宙生命の公平な判断によって明らかにされたので、三日目に甦ったのです。
イエスが死を破ったことは、人間は本来死ぬべきものではないことが証明されたことになるのです。それが、確定的に、歴史的に証明されたのです。
キリスト紀元は、人間は死ぬべきものではないという紀元なのです。これは宗教でも学問でもない、私達自身のリビングの問題なのです。
花を見ると美しいと思う。美しい人を見ると、どきどきする。なぜどきどきと感じるのだろうか。こういうことは非常に素朴であって、純真な問題なのです。恋愛の本質が分かれば、死なない命が分かるのです。
それを、現代人は欲望的にしか見ようとしない。これが根本から間違っているのです。神聖な恋愛を、冒頭しているのです。
人間的な思想によって汚れた命がきれいに洗われますと、人間の精神におのずから若さがわいてくるのです。人間の本質、魂の本質はマインド(精神)の問題です。マインドの入れ替えをしますと、死ぬにきまっている命から、死なない命に転換できるのです。
そうすると、精神的な若さがはっきり現れるのです。
精神のあり方をかえると、命が変わるのです。これについて般若心経は、五蘊皆空というすばらしい思想を、人間に提言しているのです。
五蘊皆空という思想は、欧米社会には全然ありません。般若心経の空観は、現代の最もすぐれた文化思想です。
聖書は文化思想ではありません。文化の淵源の思想です。聖書は神の実物を示しているのです。
神とは、髭をはやしたおじいさんではなくて、事実なのです。神を勉強することは、事実を勉強することなのです。学問でも常識でもない。生きているという事実をつかまえるのです。女性の実体をつかまえるのです。命の実体をつかまえるのです。そうすると、死んでしまう自分と別れることができるのです。
人間は、死なねばならないものではないのです。人間が死ぬべきものではないことが、歴史的に立証されてから、2000年以上になるのです。ところが、このことを勉強しようという人が、めったにいないのです。いくらエコノミックアニマルであっても、少しは自分のリビングを考えるべきです。
とにかく、日本人は放っておけば、全部死んでしまいます。死ぬために生きているからです。
学問とは一体何でしょうか。ただ現世で生活していくためのテクニックの問題です。それも結構ですが、命の本質を究明しようという志しを持ちながらでも、生活はいくらでもできるのです。
命の本質を究明しようと考えた方が、生活もスムースにいくのです。例えば対人関係でも、国家の問題でも、本当の命を弁えますと、こだわりがなくなるのです。感情に走るとか、失望落胆するとか、そういう現象がなくなります。だから、命をつかまえよう
という気持ちが一番いいのです。
肉体は消耗品ですから、やがて故障して使えなくなるのです。ところが、精神は永遠に使えるのです。
魂は永遠に使えるのですから、人間の魂の本質は精神だということをしっかり考えて、精神を新しくすることが必要なのです。
何十年もこの世に生きていながら、命を勉強せずに死んでしまった霊魂は、裁かれるのがあたりまえなのです。
花を見て美しいと分かりながら、ステーキを食べておいしいと感じながら、おいしいとはどういうことかを本質的に勉強せずに、ただおいしいと思って欲望的な満足をくり返していた人間は、命の使い方が全然間違っていたのですから、それに対する責任を追求されるのは、当然なのです。
だから、目が黒いうちに、死ぬにきまっている命ではないもう一つの命、太陽光線の本質が分かる命を、つかまえたらいいのです。
肉体的な生理現象としての老化は、やむをえないのです。肉体は消耗品ですから、使えば古くなります。しかし、精神は永遠に進展するものです。精神は完全無欠に成長する可能性が、十分あるのです。
だから、現在までの自分の経験内容だけで満足しないで、もっと大きい心を持つのです。大望をいだいて物を見るのです。
永遠の生命を得ることは、人間に与えられた特権ですから、これをつかまえることはできるのです。
 

 

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