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命の実物

 

死んだ後にどうなるかということは、命をどのように受けとめているかに、関係があるのです。
キリスト教は、現世に生きている間に、信仰を持てといいます。ところが、キリスト教では、現世に生きていることが何であるかを、はっきりつかまえていないのです。
生きているうちに、なぜキリストを信じなければならないか、なぜ、生きているうちにイエスを信じると、死ぬことがないかということです。
人間は、今、生きています。生きていることは、命を経験していることなのです。命を経験している時に、本当の経験のしかたをつかまえるのです。本当の経験のしかたをつかまえることができれば、命の実物をつかまえたことになるのです。そうすると、死ななくなるのです。
イエスは、私は天からきた命のパンだといっています。又、私は、命である、道であるといっています。
イエスは、自分が生きているその生き方が、そのまま、命そのものを経験しているのだといっているのです。生きている時に、死なない命を経験しているといっているのです。
私は甦りである。命であるとイエスは言っています。それと同じように、現実に私達が生きている命は、命の実物をそのまま生きているのです。例えば、太陽光線は死なない命の現れですが、太陽光線を見て、その光線が持っている意味が理解できれば、死なない命を理解できたことになるのです。
そういう気持ちで生きていれば、死なないのです。これは生きている間でないとできないのです。
死んでからは、太陽光線がないところへ行くのですから、生きているうちに本当のことを悟らなければだめなのです。
死んでからどうなるのか。結論的に申しますと、現在生きていることの中に、死んだ後にどうなるかがあるのです。
現在、人が生きている間に、例えば、昨日一日生活をしました。その生活の記憶があるのです。ああした、こうした。ああいう言葉使いをした。こういう時にこうなればいいと思った。嘘を言った。やきもちをやいた。約束を破った。そねんだり、ひがんだりした。こういう毎日の生活の実感があるでしょう。
この実感が記憶になっています。これが地獄になります。死後の状態です。自分が生きていると思っている間は、誰でもこれをするのです。
人間は、自分で生きている。自分の命があると思っている。これは大変な間違いです。
自分が生きているという考え方が、地獄をつくっているのです。これがこわいのです。
自分が生きていると思っていることが、死んでいく原因になるのです。自分が生きていると思わなかったらよいのです。そうすると、死なないのです。
イエスは、自分が生きていると思っていなかった。命は神のものだと考えていた。自分を、生ける神の子だと言っているのです。
自分が生きているのではないということに気がつけば、地獄が消えてしまうのです。
自分が生きていると考えている間は、その人の頭の中に、地獄があるのです。永遠の命を見つける方法は、これなのです。般若波羅密多の秘訣はこれなのです。
もう一度言いますと、人間は誰でも自分が生きていると思っていますが、自分が生きているという事実は、どこにあるのでしょうか。誰も、自分が生れたいと思ったのではないでしょう。そうすると、今生きている命は、自分のものではないのです。これなのです。
自分が生れたいと思って志願したのなら、今生きているのは自分と言えるかもしれない。
しかし、自分が生れたいと思ったわけでもない。親に頼んだのでもない。今生きている命が、自分のものだという証拠は、一体どこにあるのでしょうか。
自分が生きていると思っているから、うれしいことはうれしいと考える。うれしいことばかりならいいのですが、苦しいとか、つらいとか、腹が立つとか、嘘を言うとか、いろんな事を考える。これは、自分が生きていると思うからです。
自分の命だと思っている人は、毎日、罪を重ねているにきまっているのです。自分の思いどおりにならないからです。自分の思いどおりにならないのが、あたりまえなのです。
大自然は、自分のものではないのです。自分の思いどおりにならないのが、当たり前なのです。
自分のものではない大自然の中で、自分の命を持って生きているのですから、思うようにならないのはあたりまえなのです。
毎日毎日、自分の腹の中で、苦をつくる、罪をつくる。うらみをつくる。そういう記憶ができるのです。
二十年生きれば、二十年の記憶、三十年生きれば三十年の記憶、七十年、八十年生きれば、長い間の犯罪の記憶が、がっちり固まっているのです。これが、霊魂の大きな負担になっているのです。これが死んでから問題になるのです。
どうして裁かれるのか。裁きはどんな方法でなされるのか。これは聖書を見れば分かるのです。実は、宗教ではこれがはっきり言えないのです。
自分自身の記憶が、自分の霊魂を裁くのです。つまり、人間の生活のしかたが、霊魂のあり方と矛盾した方法で生きているのです。
自分が生きていると思っているからです。命は自分のものではないのです。神のものです。神の命を預かって生きているのです。それを、自分が生きていると思っている。
自我意識は、最も恐ろしい悪魔です。
悪魔が、一人ずつ、人間の中に住んでいる。これが、本当の般若心経の勉強を、きらわせるのです。聖書の勉強をきらわせるのです。
命が自分のものだという考えは、天の命を奪いとっている考え方です。天の命を盗んでいるのです。
人は天から命を与えられて、七十年、八十年の間預かって生きているのです。そこで、生きている間に、預かりものの命に気がついて、本当の命を経験するような生き方になれば、死なないことが分かるのです。
そうしますと、生きてきた記憶の内容が、がらっと変わってしまうのです。私達は、お金を盗んでも刑務所へ行きます。ましてや、命を盗むと、ただではすまないのです。
これは、人が盗んでいるのではなくて、この世の常識が盗んでいるのです。この世に生れた人間は、誰もが、この世の常識にまといつかれて、自分が生きていると思っている。
これは、人が悪いのではなく、この世の常識が悪いのです。この世の常識から逃げ出すことを考えれば、死後の世界へ、堂々と手をふっていけるのです。つまり、死なない命が分かるのです。
 

 

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