top of page

世界でたったひとつの宝物

 

はじめに
新約聖書に次のような譬話があります。「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売り払い、そしてその畑を買うのである」(マタイによる福音書13・44)。
人生は宝探しです。ある人は恋人という宝を探すでしょう。またある人は社長という宝を探し、ある人は国会議員、総理大臣、大統領という宝をさがすでしょう。そういう宝ものは、苦労して得ても、死ぬと同時になくなってしまうものです。
本 当の宝とは何であるか。それは死んでも無くならないもの、永遠に続くもので、それが地球と人間の中に隠されているのです。その掘り出しかたの前半分を釈尊 が発見し、それをイエス・キリストが発見しました。私たちもこの両者の教えに忠実に従えば、世界でたった一つの宝物、すなわち永遠の生命の実物を手にする ことができるのです。
皆様が現在生きていらっしゃる命は、死ななければならない命です。人間は、死ななければならないことが分かっていながら、死ななければならない命を自分の命だと思い込んでいるのです。
なぜそういう愚かなことをしているのでしょうか。死ぬか死なないか分からない。ひょっとしたら、死ぬかもしれない。又、死なないかもしれないというのでしたら、現在生きている命を自分の命だと思っていれば、まぐれあたりに死なないようになるかもしれません。
ところが、皆様が今生きているいらっしゃる命は、百人が百人、千人が千人共、必ず死ぬに決まっている命です。そのことはよくご存じです。よくご存じですが、そういう生き方をやめようとしません。ぜやめようとしないのでしょうか。
人間は自分が生きていると考えて、自分の命があると考えています。なぜ自分の命があると考えるのでしょうか。自分の命は一体どこにあるのでしょうか。
命は天地宇宙の本質です。万物の本質が命です。人間の本質は、そのまま宇宙の本質に通じているのです。
自分の理屈、自分の立場、自分の記憶、自分の都合、自分の常識を棚上げするような気持ちがあれば、死なない命を見つけることは何でもないのです。ただそれだけのことです。
自分の理屈や自分の言い分を棚上げしないで、自分が生きていると考える。だから死んでしまうのです。
皆 様は自分の命を、自分で裏切っているのです。せっかく死なない命を持っていながら、自分が生きていると思っているために、それを踏みにじっているのです。 自分が生きていると思っているだけで、人間は100%死んでしまうことになるのです。そういう愚かなことを、やめさえすればいいのです。

 

 

bottom of page