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電気現象

 

 

旧約聖書創世記の一章にある文句ですが、一節に、初めに神が天と地を造ったとあります。二節は、地は形なくむなしく、闇が淵のおもてにあったとあります。そして神の霊が水のおもてをおおっていたとあります。この意味が、キリスト教では全然分かりません。天と地の創造をどのように解釈したらいいのか、さっぱり分からないのです。創世記の根本原理が理解できないので、聖書を読んでいても興味が持てないのです。

この箇所をキリスト教は全然説明しないので、聖書を読んでいても、信じられないのです。天地創造の根本原理が分からないからです。
天地創造の原理が分かりますと、物質が存在しないことが分かるのです。闇が淵のおもてにあるというのは、マイナスの電気の発生原理を意味していますし、神の霊が水のおもてをおおっていたということが、プラスの電気の原理を意味するのです。天地創造の初めに、プラスの電気とマイナスの電気が発生したのです。電気がどうして発生したかという、驚くべきことが書いてあるのです。
地球、万物、色、形、味、香りはすべて、電気現象です。電気現象が、山、川、岩、水、植物、動物のように見えるのです。すべては電子の運動です。電子の運動が、物質のように見えるのです。この原理は、中学校で誰でも勉強していることです。
今という時間だけがある。現実という時間だけがあるのです。これが本当のリアリズムです。現実主義です。本当の現実主義になることが、実は聖書を信じることなのです。
聖書を信じて、天国へ行くという考え方は間違っています。本当の意味で現実を掴まえることが、神を掴まえることなのです。本当の現実を掴まえることが、命を掴まえることにもなるのです。
皆様の命は、現実しかありません。昨日の命は、今日はありません。明日の命はまだ実現していないのです。現在、皆様が生きていらっしゃることが、皆様の実体です。
聖書は極端な現実主義です。宗教的とか信仰的というものではないのです。本当の神は、今生きているということです。存在することが神です。存在することが分からないから、死んでいく命に生きているのです。
存在すること、今が今であることは、概念ではありません。情報でもありません。本当の実体です。今、自分がここにいることは、否定のしようがない事実です。今、皆様の目が見えています。これは嘘ではないのです。徹底した現実主義が、真実の世界に入り込む要領なのです。
地は形なくむなしくとありますが、地は形がある世界です。天地が創造される前のことを言っているのです。物質的な形がなかったから、目的がなかったのです。天地が造られる以前は、そういう状態だったのです。
今という時間がなかった。ここという空間も一切なかったのです。
闇とは何か。死の法則です。死の法則が闇の正体です。
川の流れに淵があるのです。いわゆる瀬となり、淵となりとありますがこの淵です。どろんと澱んでいる所です。どろんと澱んでいて、水が流れているかいないか分からないような静止状態をいっているのです。
おもてというのは、顔です。淵の顔に、死の則があった。それと比較対称するように、神の霊が水の表をおおっていた。神が水の表を占領するような状態で、水を動かしていた。動けと言う命令を出していたのです。
淵は水の流れによって、自然にできるものです。水の表というのは、淵の原理をなすものです。淵でも、底の方では水が流れています。その状態を神の霊がおおっていた。
闇は悪魔のことです。悪魔は淵の表を見ていた。神の霊は水の底の方を動かしていた。底を動かしている神の御霊と、水の表だけを見ている悪魔の感覚と、二つの見方があるのです。
神の霊はどこまでも動です。生きることです。悪魔の方は死です。どろんとして静止のような澱んだ状態の水に、死の則があった。
現在、皆様が肉体的に生きている状態を自分だと思っていると、皆様の思想は悪魔の方になるのです。闇が淵の表にありというあり方になっているのです。
ところが、目が見えているということ、耳が聞こえるということ、五官が働いている、お腹がすくという新陳代謝という生理現象がそのまま命である、鼻から息を出し入れしていることが、命だというお考えになっていれば、皆様の魂は自動的に神の方に向いているのです。
動いていることが、存在していることです。形があることが存在ではなくて、動いていることが存在です。これは般若心経の原理に合っているのです。
空とは動いていることです。色は止まっている淵の方です。淵が水ということで、これを色即是空と言っているのです。しかし、どういう原因と目的で淵が存在しているかということを、般若心経は説明していません。そこで、聖書を勉強しなければ、般若心経の色即是空、空即是色の説明はできないのです。
一定の形をもった物質が存在すると、誰でも考えています。自分の肉体がある。家がある、道路がある、樹木がある、石があると考えています。
家があるのではない。物理現象が家を造っているのです。形があるのかというと、そうではない。家は瞬間、瞬間、古くなっているのです。一年前と、現在とでは、違うはずです。目に見えるほど古くなっていませんが、二十年、三十年後に見れば、だいぶ変わっています。
そのように、物理現象は静止しているのではなく、動いているのです。これが、物質が存在することの原形です。動いているということは、実体的に存在していないということです。一年前の家は一年前の状態であった。今日の家は今日の条件であるのです。流れ動いているのが、時間と空間の関係です。時間と共に空間が存在するのです。
そのように、地球自身が、十年前と現在とでは違っています。やがてこの地球は壊滅するでしょう。物質で造られたものは、物理的に壊滅する。これはあたりまえのことです。形あるものは、必ず壊れる。生あるものは必ず死する。諸行無常です。すべての物質はなくなってしまうのです。
皆様は諸行無常の世界に生きておいでになるのです。神の霊、水のおもてをおおいたりが、諸行無常の原理です。物質は一定不変の状態で存在しているのではありません。瞬間、瞬間、なくなりつつあるのです。皆様がもし、物理的に存在する自分の体が、瞬間、瞬間なくなっているということに、お気づきになれば、闇が淵のおもてにあるという死の現象から、遠ざかることができるのです。死の現象から遠ざかりたいとお考えになったら、神の霊が水のおもてをおおっているということを、お信じになったらいいのです。
物質的に形があるものは、存在しているように見えてはいるけれども、瞬間、瞬間、なくなりつつあるのです。神の霊の方は、どんどん生まれてくるのです。これが、生命現象、存在現象の根本です。従って、皆様が物質があるとお考えになっているとすれば、その考えは間違っているのです。
物質があるのではない。物理状態があるのです。新陳代謝という状態が、物質があるように見えるだけのことです。これを考えますと、般若心経の空という思想が、よく理解できるのです。
人間の肉体が新陳代謝しているように、地球も新陳代謝しているのです。人間の生理現象は、地球の物理現象を、そのまま代表しているのです。
皆様方が、ご自分の存在に気がつけば、物質が存在するという思想は、嘘だということが分かるのです。
そうすると、今生きている命の状態ではなくて、肉体がないという感覚を持つことができるのです。
物理現象はありますが、物質はないのです。これにお気づきになれば、皆様の考え方の根本原理が、新しくなるのです。
 

 

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