top of page

何のために生きているのか

 

何のために生きているかということを考えると、いてもたってもいられないというお気持ち、これは最も切実で、崇高なお気持ちであると思います。宇宙が進展している。世の中が進展しているのだから、何とかしなければならないというお気持ちは、非常に崇高なものではないかと思います。
何のために生きているかという質問を仏教の専門家にしますと、答えられません。仏教には、人間が何のために生きているかという答えが全くないからです。
仏教は人間が生きているところから出発しているのです。人間創造の原理、天地創造の原理を、仏教では考えていないのです。
釈尊は、生老病死という四苦を見きわめるために、出家をしたのです。つまり、人間が生きているから死ぬわけなのです。
釈尊は人間が生きているという所から出発しているのです。人間が創造されたという所から出発していないのです。
人間の原点に立っていない。人間の生存状態から出発しているのです。これが釈尊の甘い所なのです。
人間はなぜ存在しているかということが、人間探求の原点にならなければならないはずなのです。
そこで、人間がなぜ生まれてきたのかを簡単にお話しますと、皆様方は生まれたいと思って生まれてきた人は丈もありません。生まれたいと思わないのに生まれてきたのです。
これは一体何かといいますと、宇宙の摂理、歪万象の根源の意志によって生まれたと言わざるをえない。それ以外の考え方がないのです。
自分の意志によって生まれたのではないし、親の意志によって生まれたのでもない。親も子供も、生まれたいと思って生まれたのではありません。産みたいと思っても、生まれない時は生まれないのです。
親の意思によって子供が生まれるものではないのです。もちろん自分の意志によって生
まれたのでもありません。そうすると、一体誰の意志によるのか。これは、宇宙の必然性によるという言い方以外にはありません。
宇宙の必然性、絶対性が神なのです。神と言っても、宇宙人格と言っても、必然と言ってもいいのですが、私たちはこの必然性によって生まれたのです。ですから、宇宙の必然性に従って生きるのは当たり前です。これに従っていない文明は間違っています。

今の文明の概念、近代文明の概念は、全く間遠っているのです。ルネッサンス以降の学問を規定する概念が、間違っているのです。だから、文明の度合いが高い所ほど、人間の質が悪いのです。
文明の度合いが低い所ほど、人間の質がかえって素朴であっていいのです。文明の高い所ほど、不純で、不健康なのです。近代文明は、根本的に病的です。
今の文明や学問を基準にして考えますと、皆聞達ってしまいます。人間存在の基準が分からないのですから、そうならざるをえないのです。
やがてこの地球は、火で焼けてしまうか、氷に閉ざされてしまうか、何年先か分かりませんが、遠いか近いかの別はあるとしても、地球はだめになるにきまっているのです。地球上に人間が一人も住まなくなる時がくるのです。そうすると、文明とか、社会とかいう概念は、完全にだめになります。
現在の学問は、将来だめになってしまうものなのです。政治も経済も、宗教も芸術も、皆だめになるのです。
そこで私達は、命の実体を究明して、命をはっきり捉えなければならないのですが、そのためには、宇宙の意志をわきまえなければならないのです。これ以外に、命を探求する道はないからです。
国家のため、社会のためということを言いますが、国家社会はやがて消えてしまうものなのです。そういっても、三万年や五万年はあるだろうと思えるのですが、それが学者の楽観説です。今の学者はできるだけ世間の人にいやがられないようなことをいって、ごまかしているのです。本当のことが分かっているわけではありません。
現在の人間文明の実体を考えますと、文明はこれ以上発展する見込みがないほどに、爛熟してしまっている。 
現在の人間は、親子ということが分からない。子供が親の言うことを聞くのは、どういうことなのか。なぜ親の言うことを、子供が聞かなければならないのかという原理が分からない。
夫婦が分からないのです。夫婦とは一体何なのか。性欲のはけ所にあるのだろうか。貞操とは何だろうか。あるのかないのかさっぱり分からない。そういうわけで、善とは何か、悪とは何かが、全然分かっていない。こういう板本的な問題が、全く分かっていない。そういう所に文明の大混乱の原因があるのです。
こういう文明は、近い将来、必ず崩壊します。もう崩壊の前夜だと言ってもいいでしょう。
とにかく、私達は現在生きているのでありまして、心臓が動いているという事実があります。この事実をみきわめるというやり方をしますと、命の本質が究明されます。
現在、時間がどんどん流れています。どこから時間がくるのでしょうか。これを端的に聖書的な言い方をしますと、神の約束という言葉で説明できるのです。
約束というのは、未来を保証するという意味なのです。神とは何か、人間とは何か、命とは何かということを、端的に究明なさるのが一番いいと思います。
そこで考え頂きたいことは、現在の人間の思想は、すべて空であるということなのです。五蘊皆空の蘊というのは、雑草が生い茂って、うず高くつもっているという意味なのです。
宇宙の必然性、絶対意志から考えますと、人間の考えはすべて雑草なのです。これが、うず高くつもっているのです。これが全部空だといっているのです。これをまず、ご承知願いたいのです。
皆様の今までの常識、知識は、人生の実体を究明するためには、何の役にもたたないということなのです。
人間の道徳も、宗教も、人生の実体を究明するため、命の実物を究明するためには、何の役にもたたないということを、まずご承知願いたいのです。
そうしますと、潤沢な気持ちで神に向かうことができるようになります。宇宙の必然性に向かうためには、まず人間の妄念を去ってしまうことです。これが般若心経の功徳です。
般若心経の功徳は空です。聖書の功徳は救いです。空と救い、悟りと救いです。般若心経には悟りはありますが、救いはありません。聖書には、イエス・キリストの復活という厳然たる歴史的事実があるのです。
復活を、心を開いて勉強されれば、皆様は永遠の生命の実体が、はっきり分かるのです。宇宙の実物は何であるか。宇宙の本当の姿が何であるかが分かるのです。
そうすれば、どのようにすれば宇宙完成に協力することができるかということが、必ずお分かりになるでしょう。これが、万物の霊長としての責任なのです。
 

bottom of page