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死なない命を得る

 

 

私達が現実に生きていることは、肉体的に生きているという形になっていますけれど、これは、形式的に言えばそうなるのです。しかし、肉体的な生活をそのまま鵜呑みにしてはいけないのです。肉体的な生活を鵜呑みにしてしまいますと、肉の思いになります。肉の思いは、死んでしまうにきまっているのです。

人間は、死にたくないという気持ちがあるにきまっているのです。死んでもしかたがないという人は、命をつかまえるという根気が、全然ない人なのです。
死にたくないというのは、人間の本能的な願望なのです。仏教的に言えば、本願となります。本願という気持ちは、宗教観念ではないのです。
人間は、実は、死ななくてもよい命を持っているのです。本当の命を、潜在的に持っているのです。しかし、顕在意識的には、死なねばならないと考えているのです。この矛盾を、のりこえてしまえばいいのです。死にたくないと考えている本心の方に重点を置いて、死ぬのはあたりまえだという人間の常識に負けないで、考えるのです。
生活をすてるのではありません。生活は、現在、命を経験していることなのです。命を経験していながら、命の本物が分っていない。これが間違っているのです。命はこれだといえるならいいのです。
人間は、生活はしているが、生きてはいないのです。命を正確に経験していないからなのです。生活はあるが、命はないのです。これが、文明の欠点なのです。
空(くう)とは、生活を捨てることではないのです。生活をすることに対する自分の執着をすてることです。もっとはっきり言いますと、自分に対する思想の執着を捨てることなのです。自分の考え方に対する執着をすててしまえば、本当のことを発見できるのです。
例えば、何かを食べておいしいと思います。おいしいという実感が、魂なのです。おいしいとか、きれいだとか、楽しい、嬉しいとかを感じますが、これが魂の実感なのです。人の魂は、現世で命を経験しています。
ところが、人間の常識の方が、魂の感覚をふみにじっているのです。これが悪いのです。
常識を軽視すればいいのです。常識は捨てなくても、スリッパや靴のようにはけばいいのです。
これを頭にかぶるから、いけないのです。常識は、せいぜい靴のようにはいたらいいのです。常識に抑えられたらいけないのです。
常識に執着しないで、軽視する気持ちを持てば、魂の本願が目を開いてくるのです。本願の目が開いていないのは、常識や学問という現世に生きている人間の考えを重んじすぎるからです。だから生活ばかりを考えるのです。生命のことを考えようとしない。こういう欠点をなおすのです。
今の人間の魂の目は、開いていないのです。花を見てきれいだと思うのは、霊魂の働きなのです。霊魂の働きを経験していながら、常識とか知識によって、きれいに思えることは、何でもないと思うのです。
人間の生活で経験している美しいとかきれいとかいうことこそ、実は本当の命なのです。この命を見過して、受けそこなっている。だから、生活していても命が分っていないのです。
人間が現在生きているという気持ちは、はかないものです。死ぬにきまっていることが分かっていながら、それをどうすることもできない。死にたくないという気持ちを持っていながら、死にたくないという畢生の望みを、捉えることができないもどかしさがあります。これは、実は、命を間違えて考えているからです。
命には、死ぬにきまっている命と、死なない命と、二つあるのです。死ぬにきまっている命は、肉体的に生きていることを、自分の命だと考えていることです。肉の思いは死であるという言葉がありますが、肉体的に生きている命を自分の命だと考えていますと、死ななければならない命を受けとめていることになります。
もう一つの命は、肉体的に生きている命ではなくて、命の本質が何かを考えることです。肉体的に生きているのは、一つの状態です。コンディションですが、状態的な命ではなくて、本質的な命を見ようと考えたらいいのです。そうすると、死なない命が分るのです。
命の本質は何かというと、魂ということなのです。聖書に、生ける魂、リビング・ソールということばがあります。リビングしているソールなのです。生きている魂を自覚するようになれば、死なない命が分かってきます。
魂と、人間は別なのです。これがややこしいのです。人間と魂は同じものだと宗教家は言います。そのように誤魔化すのです。これがけしからんのです。
固有名詞の人間は、世間に通用する人間です。これを自分だと思っていると、必ず死にます。絶対に死にます。
イエスは固有名詞の自分、人間としての自分を、自分だと思わなかったのです。彼は、自分の母親に向かって、女よ、おまえと私と、何の関係があるかといっているのです。何の関係があるかといって、親子なのです。それなのに、こんなことを言っているのです。これは、イエスが、ナザレ村の大工であることを、忘れていたのです。イエスはこういう男です。
魂が自分であることが分ると、人間としての自分が、自分ではないことが分るのです。魂とは何かといいますと、神の子なのです。イエスは、私は生ける神の子であると言っています。
リビング・ゴッドの子であるといっています。生きている神の子が、リビング・ソールなのです。リビングという点では、神も、人間も同じなのです。人間が鼻から息を出し入れしていることが、リビングなのです。目が見えることが、リビングなのです。これに気づくことです。この本質が分かると、死なない自分が分かるのです。
魂というのは、生活機能の精髄、エッセンスなのです。霊魂が分りますと、情緒ががらっと変わってくるのです。例えば、花を見ても、ただ美しいというだけでなくて、美しいということが、魂の命に重大な関係があることが、分かるのです。
人間の脳は、5%しか働いていないのです。あとの95%は、眠っているのです。だから、今の人間は生きているかっこうをしているけれど、本質的には死んでいるのです。脳の95%が眠っているからです。
聖書に、眠れる者よ起きなさいという言葉があります。今は、眠りよりさむべき時であるという言葉もあります。死人のうちから出できたれといっています。この通りになっているのです。人間の脳細胞は、眠っています。この頭で、物事がいいか悪いかの判断ができるはずがないのです。
人の命の本質が、魂なのです。目がみえること、視覚意識の根源が、魂の情緒なのです。魂の情緒が見ているのです。花が美しいということと、永遠の命と、非常に大きい関係があるのです。
美しいとはどういうことかが分りますと、死なない命が見えてくるのです。これが、イエスが見ていた見方なのです。イエスが、どのように見ていたかを勉強すれば、分かってくるのです。
例えば、マグロの刺身を食べるとします。マグロの味は、魚屋がつけた味とは違います。花の美しさは、花屋が造ったのではないのです。そうすると、誰が造ったのか。天地の公義が造ったのです。自然法の原理が、造ったのです。
味とか、かおりとか、美しさが分かってきますと、魂が始めて目をさますのです。人間は、五十年、六十年生きていて、美とは何かということを、魂の角度から見たことはないのです。
一番重要な美は、女性の美しさです。これが分っている人は、めったにいないのです。女性の美しさは、どんな花よりも、どんな景色よりも、美しいのです。これが分ると、魂は、はっきり目をさますのです。今までの享楽主義的な見方、自分の家庭のふるまいが、間違いであったことが分ってくるのです。その時に、本当の人生が分ってくるのです。
人間は、現在、命を経験しているのです。ただ、経験のしかたが悪いから、死んでしまうのです。これをよく考えて、魂の勉強をまじめにするのです。魂の勉強をすることが、この世へ生れてきた目的なのです。
商売をすることが目的ではない。給料をもらうことが目的ではない。魂の勉強をすることが目的なのです。そのために、五官という機能が与えられているのです。
今までの命は、死んでいる人間の命です。生きている人間の命を、経験しなければならないのです。これが、死なない命を得る方法です。


 

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