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情報と伝統

 

皆様が現在生きておられる命は、死ぬに決まっている命です。これは誰でもよくご承知のことですが、死ぬに決まっていることが分かっていながら、その命を自分の命だと思いこむという、非常に愚かな、形容できないような矛盾を強いられているのです。
お互いに、死ぬことが分かっているのです。しかし、死ぬに決まっている命を、自分の命だと思わせられている。これは、皆様ご自身が、そう思いたいから思っているのではあません。文明構造や、社会常識が、そういう考えを、皆様に押しつけているのです。
皆様はそれに対して、全く抵抗力がない。ほとんど無力です。全世界の人間が、死ぬに決まっている命を、自分の命のように思い込まされている。これについて、おかしいと思われないのでしょうか。これは、バカなことだと思われないのでしょうか。
文明構造の根本が、全部間違っているのです。このような文明が、人間全体を滅亡の谷底に引きずりこんでいくのです。
皆様は文明を深く信じています。誰も文明について疑いを持たないでしょう。生活は豊かに、快適になりました。すべての人が文明を、称賛していますが、この文明が皆様を地獄に引っ張っていくのです。
死ぬことがはっきり分かっていながら、その命を自分の命だと思い込ませている。これが文明です。
現在、世界に生きている人間は、百年後には全部お墓に入っているのです。一億二千万のお墓が日本にできるのです。世界中で、68億のお墓ができるのです。こういうバカな文明がどうしてできたのか。人間の思想で、勝手に造っているだけです。
六千年の間、人間は文明を造ってきました。ところが、未だに人間が何のために生きているのか、説明ができないのです。学問でも、全然説明ができないのです。
何のために学問があるのでしょうか。さし当たり目の前の目的はあります。極めて近視眼的な目標はあります。三十年、五十年先の、生きている間の目的はありますが、それで終わりなのです。
生きている間の目的を果たしたとして、予定どおりの給料をもらって、予定どおりの家を建てて、子供を大学へ入れたとして、それが何になるのでしょうか。死んでしまうだけです。一体人間は何のために生きているのでしょうか。何をしているのでしょうか。
私が述べているのは、ただの悲観論ではありません。そのように思えるとしたら、現在の人間が、捉えるものを捉えないで虚妄を捉えている、虚像を捉えているからです。生きていることの意味が、全く分かっていないからです。
現在の人間は何を頼りに生きているのかと言いますと、情報と伝統です。これに頼っているのです。
情報とは人間が考えたことです。人間の理屈です。ノーベル賞をもらって喜んでいる社会です。
伝統とは何か。人間は死んでしまうという伝統です。この伝統によって、現実に生きていらっしゃる皆様の命は、必ず死んでしまうのです。
情報をいくら頭につめこんでも、命を転換することは絶対にできません。宗教はすべて情報です。日蓮上人の宗教は、日蓮が考えた情報です。道元が考えた情報が、曹洞宗です。親鸞が考えた情報が浄土真宗になっているのです。
キリスト教は、ローマ・カトリックが代々考えた情報です。キリスト教は神の言(ことば)とは関係がありません。キリスト教は欧米の宗教です。それが現在、相当な勢力を持っているのです。その勢力にごまかされて、キリスト教を信じれば救われると、勝手に思っているのです。
本当の真理は、めったに出会えるものではありません。そのめったに会えない真理について、お話ししているのです。例えば、魂とは何かについてお話ししたいのです。
魂という言葉は、誰でも知っていますが、魂の実物を誰も知らないのです。魂というのは、人が生きている実体です。生きている実体が、魂の本物です。
人間は生きていることの実体が分かりません。おかしいことです。私たちは生きていながら、生きていることの実体が、自分自身で分からないのです。
般若ハラミタということは、彼岸へ渡る上智です。彼岸へ渡るというのは、人間が生きていることの実体を捉えることです。
現在の宗教では、生きているという簡単なことが分かりません。常識的に生きているという気持ちは、誰でも持っていますが、生きていることの実体が分からないのです。
なぜ分からないかというと、命のルーツが分からないからです。宗教ではこれは分かりません。絶対に分かりません。仏教では、仏教概念で仏を信じるしかない。日蓮宗は日蓮が考えていた以上のものを捉えようとしても、できないのです。
釈尊は、人間の考えは全部空だと言っている。これは当たり前です。死んでしまう命を、自分の命だと思い込まざるをえないような考えは、空だと言わざるをえないのです。だから、釈尊が言っていることは事実です。一切空というのは、事実です。
空であることが事実であっても、空であることが分かるだけなのです。命の実体は分かりません。そこで、般若心経だけでは、どうしてもかたがつかないのです。
般若心経は釈尊の悟りを端的に要約していますが、般若心経をいくら理解されても、命をつかまえることはできません。これは命のルーツを求める心なのです。命のルーツを求める気持ちにはなりますが、命のルーツの現物をつかめるかというと、そうはならないのです。そこで、キリスト教ではない聖書が必要になってくるのです。
皆様に、キリスト教という宗教は必要ではありません。ローマ法王が嘘を述べている。端的に言えば、宗教教義が嘘なのです。宗教はそれを信じる気持ちを持ち続けている人には、効果があります。それは自分の観念で、自分をごまかしているだけのことです。宗教観念は、それを信じる人だけにしか通用しません。日蓮宗は日蓮宗を信じる人だけにしか、通用しないのです。天理教や禅宗の言っていることは、白人社会では全然通用しないのです。一つの宗教は、その宗教の中でしか通用しないのです。そういうものは事実だとは言えないのです。
ところが、皆様の命は事実です。皆様が生きておいでになるのは、情報ではありません。事実です。
そこで、皆様にとって一番必要なことは、現在生きておいでになる命の実体を、どうすればつかまえられるかということです。
命は二つあります。生(せい)と命(めい)と、二つのいのちがあるのです。生とは、いのちの本質に係わるものです。
人間のいのちは、皆様が生まれる前からあったのです。その命が、現在結果として現われている。これが人間存在です。
人間存在はこの世に生まれてきたという、結果です。生まれてきたという結果が発生するためには、原因がなければなりません。生まれる前という原因があって、生まれてきたという結果があるのです。又、死んでいくという未来があるのです。
人間には、過去、現在、未来という三つの時間を考える能力があります。これをよく考えてみますと、皆様の魂には、過去と未来があるに決まっているのです。
ギリシアの哲学者アリストテレスは、生物の能力性は、その生物の本性を現わしていると言っています。これは当たり前のことですが、これが今の人間には分からないのです。 アリストテレスの哲学は、情報ではありません。生物のあり方をそのまま見ているのです。
例えばクモが巣を造るという能力は、クモの本性をそのまま現わしているのです。生物の能力は、その生物の本性をそのまま示している。
皆様は過去、現在、未来という時間を、三つに区分して理解、認識する能力を持っています。そうすると、人間の命の本質、本性は何でしょうか。つまり、過去、現在、未来の三つの命があることが分かるのです。
ところが皆様は、現在の命しかお考えになっていません。これが文明の害毒です。人間の魂は過去、現在、未来の世界を持っているはずです。
現代の文明、学問、常識は、皆様にそのような認識を拒んでいるのです。そういう認識をさせないようにしているのです。
宗教は死んでから天国へ行くと言います。死んでからという考えが間違っています。生きているままで、天国へ行けるのです。死んでから行くのなら、現在の世界とは関係がないのです。死んでから天国へ行けるというのは、完全に逃げ口上です。人を騙す言い方です。
聖書にはそんなことは書いていません。仮に死んでから天国や極楽に行って、何をするのでしょうか。
福沢諭吉は、死ぬ時に、西に向かって手を合わせて、ナムアミダブツと言えば、極楽に行けると言われた。極楽に行って何をするのかとお坊さんに聞いたら、極楽には仕事はないと言われた。諭吉は、それでは極楽行きは、願い下げをしたい、私はこの世に生きている間中、働き通してきた。極楽で何もすることがないのなら、退屈でしかたがない。だから、極楽行きはご免こうむりたいと言ったのです。これは本当の話です。
極楽や天国に行って何をするのでしょうか。極楽行きの目的が、日本の仏教では全然説明ができないのです。日本の仏教が言っているのは、親鸞や法然が説いた極楽であって、釈尊が説いたものではないのです。
そういうわけでありまして、宗教はすべて教祖の情報を述べているのです。カトリックはローマ法王の教説であって、ペテロの考えとは全然違うのです。今のカトリックは、イエスが述べたことと全然違ったものになっているのです。
プロテスタントは、ルターやカルビンの情報を信じているのです。宗教も学問も、常識も、全部情報ばかりです。
皆様は、みすみす死ぬ命であることが分かっていながら、その命から逃げ出すことができない。文明意識に束縛されているからです。宗教や学問に束縛されないで、魂について自由な考えを持つべきなのです。宗教から解放されて、本当の魂のあり方を認識して、命のルーツをしっかりつかまえるべきです。
心臓が止まるまでに、自分の思想を転換してしまえば、人間の魂は自由になるのです。
皆様は、死なねばならないのではありません。現代文明に服従していることをやめさえすれば、死なない命をつかまえることは、十分にできるのです。
死なない命を掴まえるためにどうしたらいいのか。前世に生きていた自分を引っ張り出せばいいのです。前世に生きていた自分というのは、五官の働きです。五官の働きの自分を引っ張り出せばいい。これがリビング(living)の実体です。死なない命です。これを受け取ることが、リビングのシールを受け取ることです。生ける神の印を受け取るのです。
赤いものを見て、赤く感じることが、皆様が生きている証拠です。これが神です。神はそこにあるのです。
聖書を理屈で勉強するのではなくて、命をしっかり掴まえるような、神の実物を掴まえるような勉強をして頂きたいのです。
人間が生きているのは、神と一緒にいるのです。一緒にいる神が、じっと見ているのです。神にいつ気がつくかと、じっと見ているのです。神は皆様と一緒に生きています。人は神と共にいる。インマヌエルの状態にあるのです。それにいつ気がつくかと、気長に見ているのです。
生きていることは、神そのものです。神の実物が、皆様の霊魂と一緒に生きている。だから、丸いものが丸い、甘いものが甘いと分かるのです。五官の働きは、そのまま神の実物になるのです。
死なない命を掴まえるためにどうしたらいいのか。前世に生きていた自分を引っ張り出せばいいのです。前世に生きていた自分というのは、五官の働きです。五官の働きの自分を引っ張り出せばいい。これがリビング(living)の実体です。死なない命です。これを受け取ることが、リビングのシールを受け取ることです。生ける神の印を受け取るのです。
赤いものを見て、赤く感じることが、皆様が生きている証拠です。これが神です。神はここにあるのです。
 

 

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